倭人は、暢草(ちょうそう)を献じる31(小説)(エッセイ・とんぼ)
エッセイ・とんぼ < 可憐で崇高な蕾たち >
今朝は、6時半頃新聞を取りに行くため窓を開けると、夜の間雨が降ったようで辺りは濡れていて昨日より暖かい空気に触れました。これは直ぐに伝えなければと、朝ごはんを食べ終わり着替えをしている下の子に、今日は少しあったかいよ!と伝えると、直ぐ様「長袖体操着はいらない!」といって置いて行きました。このやり取りが可愛いんです。
とにかく下の子は暑がりですぐに汗だくになるもので、未だに学校では半袖の体操着で過ごしているようです。
幼稚園の頃は1月も2月も半袖半ズボンの体操着で過ごしトレーナーやカーディガンを嫌がりました。いつも園バスから笑顔で降りてくるので、寒くないの?と聞いても、もちろん!といった感じで「うん!」と透き通る声で返事をするだけでした。
最近では、とても寒い日に私が部屋へ戻ると勝手に冷房設定にしていたのです。ものすごく寒くて。
こら!と言っても、本人は涼しげな顔でニヤっと知らん顔しているのです。
お兄ちゃんはスポーツをやっているのですが寒がりで、カーディガン着用OKの日からグレーのカーディガンを選びしっかり鏡の前で身だしなみを整え登校しています。
こんな日常は私の中だけにある愛しいものです。
毎日数えきれないほどのエピソードがあります。
プッと吹き出してしまったり、時には不思議すぎてため息がでたり。
大笑いしたり。叱ったり。
子供達は可憐な蕾のようです。
太陽の元でも、暗闇の中でも、宝石のように様々な色を反射してキラキラ輝きます。みんなです。どの子もです。
これから咲き誇るのです。
可憐であり崇高な蕾です。
私達身近な大人や友人たちと笑い合い助け合い、なによりも素朴な人生を生きている様が可愛いくて仕方ありません。
いい事ばかりではないかもしれません、理不尽なことに遭遇したり悲しい思いや悔しい思いもするでしょう。
それでも、堂々と咲き誇って欲しいと思います。
光の中へ旅しながら、どんな花を咲かせようとしているのかを楽しみに待っていたいと思います。(写真を数枚、下にアップしています。)
♢ 奄美西方(あまみにしかた)の衆は、千年も前から、黒潮に乗っては
南海の子安貝を蓬莱湊ほ(うらいみなと)へ運び
百越(ひゃくえつ)の国ともうまくやって来たはず
倭人が豊浦宮を襲うには、なにか特別の理由があるのか。
内陸での戦いに敗れた兵士たちが、命からからがらに
海に逃れ、あちこちの海で倭人を名乗るようになっていた...
🌿秋津先生の著書で、難しい漢字や言葉、興味を持った事などは
辞書やネットなどで調べながらゆっくり読んでみて下さい。
きっと新しい気づきがあり、より面白く読み進められると思います。
原作 秋津 廣行
「 倭人王 」より
さすがに阿津耳(あつみみ)は、高天原の重鎮(じゅうちん)である。
豊浦宮(とようらみや)の創建(そうけん)時代のことだけでなく
奄美西方(あまみにしかた)の昆一族についても周知していた。
「ありがたきお言葉に感謝いたします。
われは、その昆須(こんす)の子孫であり、西の海の交易と海の守護役を務めさせて頂いております。
ところが、その倭人(わじん)が、いまや海賊の代名詞となっております。近頃では、内陸での戦いに敗れた兵士たちが、命からからがらに海に逃れ、あちこちの海で倭人を名乗るようになっているのです。」
「戦いに敗れた兵士は、海に逃れれば、命だけは助かると言っているらしいではないか。」
「よくご存じで・・・、その通りであります。海に逃れた者たちは、いまや、大半が海賊の一味に加わっております。
救う側の海賊もそのつもりであります。何時の日か、奪われた領地を取り戻そうと志を持った敗残の将も居ますが、ほとんどが盗人(ぬすっと)になっております。
今や大陸の湊々は、海賊に襲われ、海も陸も荒れ放題であります。
倭人(わじん)の名誉も地に落ちたもので御座います。」
昆迩は、言い終わると大きなため息をついた。
「だが、そのような大陸の戦争と、秋津洲とは直接に関係があるはずもなかろう。豊浦宮を襲った倭人とは何者であるのか。
豊浦宮と倭人を結ぶ役割は、常に、知佳島の昆一族が担ってきたではないか。なれが一番よく、分かっているはずであろう。」
すると、豊浦宮の留守居を守る浪響(なみひびき)が、躊躇(ちゅうちょ)する昆迩(こんじ)を見かねて応えた...
つづく 32
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