解離症状が小説創作に及ぼしている影響の自己考察
発端
数ヶ月前
私「一次創作より二次創作の方が遙かに難しい」
友「確かに自分の世界で神様する方が楽だよね」
数日前
私「一次創作って受信しているだけだから、少なくとも私は神様ではないのでは?」
前置き
小説書きが好きです。カブです。
経緯は省きますが、解離症状を持っています。
あくまで当事者の一人であり、専門家ではないため、素人解説は控えます。
自覚症状があるのは
①離人感・現実消失症
②解離性健忘
の二つです。
今回の記事の目的は二つの症状が、趣味の小説書きに及ぼしている影響を考察することになります。あくまで私的な感覚の整理考察となりますが、何かしらの参考になれば幸いです。
自作小説に対する感覚
小説を書き始めてからおそらく6年ほど経ちました。
調子の良いときは毎日何かしらの文章を書いています。正確には把握できていませんが、10万字単位の長編を20~30本ほど書いてきました。
それなりの文量を書いてきた一方、私にはこれまで書いてきた小説に対して「自分の思考が作った」感覚はありません。
私にとっての自作小説とは「受信した光景を書き取っているだけ」のものです。
「受信」という感覚を言い換えると、「目にした景色や会話を記録している」となるでしょうか。日記とさして変わりません。
私が頭の中で作ったストーリーであることは間違いないのですが、小説を書き始めた当初から、「別世界を見せてもらっている」と思っている自覚はありました。
この世界は私が創作したものではない。この世界はどこかに存在していて、私はそれを書き留めているだけだ。そんな感覚なのです。
私にとってこの感覚は当たり前のものでした。
六年以上、何一つ疑問を持たずに受信した光景を書き連ねていたのですが、記事冒頭の会話と解離症状の自覚。二つによって、この感覚が一般的なものではない可能性に気が付きました。
友人は一次創作のことを「神様になる」と表現しています。
でも私は世界も人物も作っていない。私の一次創作は最初からどこかにあるものであって、私は介入していない。私は観測しているだけだ。
けれど客観的に考えると、自作小説は作者の思考で生まれたものであり、確かに「神様になる」という表現はそのままズバリでした。
ならば、私の「受信者」「観測者」という表現はどうして生まれたのか。考えるうちに、これは解離症状の影響ではないのか、という仮説に至りました。
離人感との関係
離人感とは、自分と外界が切り離されている感覚だそうです。
私は自分の感覚しか知らないので診断基準などの理解はできていませんが、「自分の思考を他人事のように感じること」も一種の症状ではないのかと考えています。
この仮説が正しいなら、いろいろと腑に落ちます。
日常生活を送り、文章を書く思考をカブA、世界を創作している思考をカブBとしてみると、カブAから見てカブBは別人なのです。
別人であっても脳味噌は一緒。加えて私は解離性同一症(人格の明確な分裂)までは発症していないので、健忘さえ起きなければ記憶は統合されています。
カブAの思考と、カブBの思考。二つは常に存在していて、けれど同じ思考が生み出したものとは認識できない。
だから文章を書いているカブAは、カブBが作った世界を「どこかから受信している」と感じているのではないのでしょうか。
メリット・デメリット
小説書きにおいてこの思考のメリットは、一つだけ存在します。
執筆中に迷わないこと。展開に悩まない。表現を迷いはしても、これで良いのかと考えて手が止まることはありません。
カブAは観測しているだけなので、本文を書いているときは展開を変えるという発想に至らないのです。
展開を変えられないことが最大のデメリットなのですが、これによって常に書き続けられる強みは存在しています。
一方のデメリット。
上述したように、展開を変えられません。
一度完成した小説、観測しきった世界を変えることができません。なぜなら、その世界は「存在している」から。
その関係で、私は改稿というものをほとんどしたことがありません。
誤字脱字、文章のテンポを修正するような推敲はもちろん行いますが、こちらの方が良いと考えて展開を変えたことは一度もありません。
面白い小説を書けるようになりたい、とは常々思っています。
けれど、その中身は「面白いと思ってもらえるように伝えたい」であって、「面白いものを作りたい」ではありません。
以上、整理のための備忘録でした。
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