ブルーハワイを読んで
これだ!と思う本に出会ったことはありますか? 私は最近出会いました。
という表現はかなり薄っぺらく、そうやって私が公園でみなさんを集めて話しだした途端、「そうだ、スーパーの特売日だったわ」とか「子供の送り迎えしなくちゃ」とか、公園に集まる前から元々わかっていた用事を言い訳に昇格させてしまったり、「家の鍵閉め忘れちゃったかしら」とほぼ絶対大丈夫だけど他人が嘘だとは言い切れない上手なラインを言い訳にされて、どこかへ行ってしまうだろう。私の通販番組の始まりのようなセリフに何かを買わされるのではないかと危惧する人もいるだろう。
急に公園に集めて申し訳なかった。多分皆さんが座っているところは砂だし、屋根もない。みなさんのお気に入りのズボンやスカートは今まで出会ったことない砂に出会ってびっくりしたことだろう。でも都会の喧騒に嫌気をさしたアラサーの社会人達は、久しぶりの砂の上への鎮座に幼少期を思い出すなんて気の利いたセリフを落としてくれるんだろうけど、それはそれで気を使わせている気にもなるので、今度は屋根と椅子があり雨天決行できるドリンクバーが付いているところを抑えておきます。
こんな関係のない描写は5秒も立たずに右下を押せるようにしておくのでスキップしていただいて、最近、燃え殻さんの「ブルーハワイ」という本を読んだ。
これは週刊新潮で連載されているエッセイ集である。元々、燃え殻さんの「ボクたちはみんな大人になれなかった」を読んでいて、私は全うな、にわかファンであった。本屋で立ち読みしてズキュンと胸を打ち砕かれてそのまま購入した。ちなみに挿画・挿絵をされている大橋裕之さんも全うな、にわかファンである。
で、エッセイというのは日常を切り取って感じたことを書いていくもので、私はいろんな人のエッセイを読んでいて、その時はとっても勉強になるし読んでいて楽しいと感じている。
でも結局読んだ後に「私はこれまでの人生や日常でどれだけの気づきを取りこぼしてきてしまったのだろう」という後悔が残ることがある。私の人生もこの人が歩んでいれば、もっと拾える部分があったのだろうと。
エッセイを読むと、天性のセンスで日常の小さな事象を掬い上げ、こちら側には掬い上げる努力が見えないくらい、努力をしてないかのように軽やかに、そして涼やかにこなしているようにみえる。しかもそれを大人数の人間にわかりやすく、尚且つ自分の色も出せる人たちがいて、その人たちと直面する。エッセイを書いてる人は基本そういう人だ。
そしてそういう人たちは、日常に葛藤を感じている読者を気遣って、なるようになるさ、そんな思い詰めないでというようなことを遠回しに言ってくれたり、経験を通して頑張りすぎないでと言ってくれたりする。
例えば、ぼーっと月を見ていたときのこと、公園で黄昏ていた時のこと、思い切って青春18切符で旅行して、旅先の人と打ち解け心を通わせたことなどを通して、人生は軽やかに進むこともできることを証明しながら読者を励ましてくれる。
でもそんな天性のセンスも持ち合わせておらず、青春18切符で旅行するより机に向かってウンウン苦しまないと何も出てこず、血の滲む努力を惜しまないとそんな軽やかな文章を書けない私からすると、このような優しさは、私に絶望しか与えなかった。私の捉え方がおかしいのは重々承知だ。でも、「お前には無理だ」と伝えられているようにしか思えなかった。
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