【エッセイ】武蔵(埼玉編)⑨─埼玉県へGO!(『佐竹健のYouTube奮闘記(40)』)─
ここからは稿を改め、東京都から埼玉県に話題を変える。
東京の話は、関東城めぐり本編では行けなかった場所の話もしたので、かなり長くなった。
世田谷の豪徳寺や井の頭公園、日野、高尾山などの話もしたかったが、本編との兼ね合いもあって、エッセイに書くのは辞めた。
関東城めぐりは本編だけでは足りない部分もあるので、上総編や最終回である安房編が終わった辺りで、番外編をやろうかなと薄っすらだが考えている。
昔埼玉県と東京都の大部分は、同じ武蔵国であった。ちなみにこの中には、神奈川県の川崎市や横浜市のほとんども含まれる。だが、明治時代に行われた廃藩置県や合併などにより、江戸やその周辺の村々は東京都、それ以北は埼玉、南側の一部は神奈川となった。
余談だが、多摩は一時期神奈川県に入っていたことがあったそうだ。だが、歴史的な繋がりから東京都へと編入された。
ちなみに葛飾区や江戸川区の辺りは、下総国であった。郡の名前は、葛飾郡である。今の松戸市や市川市、某夢の国がある浦安市の辺りと同じくくりに入っていたというわけだ。だが、江戸時代に武蔵・下総両国、いや、関東全体の地形に大きな変化が起きる。徳川幕府が利根川の流れを変える大工事をしたのだ。
このことから、武蔵と下総の境を江戸川に改め、西側の葛飾区や江戸川区周辺は西葛飾郡として武蔵国へと編入された。東側の松戸や市川、浦安の辺りは下総国として続いていた。こちらは東側にあったことから、東葛飾郡と呼ばれるようになった。
葛飾区と江戸川区が千葉県ではなく東京都に属しているのは、その辺りも関係があるのだろう。
武蔵国、特に東京都区部の地理は、かなり複雑なのである。また、この複雑な武蔵国の地理を懸案し、城は東京と埼玉二つ巡ろうと私は決めたのである。
埼玉県の城はどこへ行こうかなと考えた。
候補としては、川越城と蕨城、難波田城が出た。あと、高崎行きのときに行けなかった鉢形城や源義賢の屋敷跡もいいかもしれないと考えた。
だが、よく考えると、川越は動画で何度も取り上げているので、新鮮さに欠けると思った。難波田城も悪いところではないけれど、交通のアクセスが少し心配だったので辞めた。鉢形城や源義賢の屋敷跡は遠いし交通費がかかるので、候補からすぐに外した。
そして、何より最も懸念されるべきことは、
「暑さ」
だった。
5月から命の危険を感じる暑さを感じていたが、6月、特に中ごろに入ってからは、そんな日が増えつつある。だから、行くとしても、無理のない範囲で行ける場所にしなければならない。
これらのことを懸案した結果、自宅からでも近く、駅からもそれほど離れていない蕨城に決まった。
6月中旬某日。私は巣鴨で山手線に乗り、田端で山手線から京浜東北線に乗り換え、蕨市を目指した。
東京から蕨市まですぐに着いた。駅前の商店街の通りをまっすぐ進み、郊外の住宅街の小路へと入る。
(それにしても、暑いな)
汗がダラダラ流れ出る。体が熱い。雨上がりということもあり、湿気があるので、肌もベタベタして不快だ。
駅から歩いて10数分後に蕨城へと着いた。
蕨城は街の中にある少し大きめの公園だった。入口の右側は緑色の葉を茂らせた木々に覆われていて、隅の方には土塁と思わしき小高くなった部分がある。右側の隅にある小高くなった部分は、文化財保護の観点からか、フェンスで囲われて入れなくなっている。入口から見て左側は、芝生が植えられた広場があって、その向こう側には市の公民館がある。
入口の前に看板があった。
看板には、蕨城が足利氏の一族である渋川氏の城で、南北朝時代にここに居を構えてから三舟山合戦で時の当主が討ち死にするまで城があったこと、江戸時代には徳川将軍家の鷹狩の御殿があったことなどが書かれていた。
(足利氏の一族の城だったのか)
意外な名族が、ここ蕨に城を持っていたことに私は少し驚いた。
(さて、入ろうかな)
私は城跡へと入った。
雨で濡れた土に気をつけつつ、城の敷地を巡っていく。
右側の奥の方には池があった。堀には鯉や亀が泳いでいる。
(ここ、そうえいばお堀だったのよね)
私は池がかつて堀であったことを思い出した。確かどこかに、この池の近くにそんなことが書かれた石碑があったはず。
石碑を探してみる。石碑は祠の隣にあった。
祠の近くにあった石碑には、この池が堀であったことについて記されている。
(やっぱりそうだったのね)
ここが堀跡であるということを私は再確認した。
池の右手には和良備神社があった。
社殿は木造で、使われている木材はまだきれいな濃い目の少し茶色がかった肌色をしている。そう見える塗料が使われているという線もあるだろうが、少なくとも新たに建て替えられたものなのだろう。
私はここでお参りをして、蕨城を出た。
神社の神様に言ったことがあるとすれば、
「いつもありがとうございます。今年は厄年ですので、残りの半年無事に過ごせますようどうかよろしくお願いいたします」
ということだろうか。
厄年に入ってから諸事上手く行かないし、悪いことが一週間に一回は起きている。そのおかげでだが、ストレスは溜まるし、体調が悪くなるし、持病のようなものである鬱状態が悪化して精神的にも不安定になるしで、本当にろくなことがない。これからさらに暑くなるだろうから、もっと悪化するだろう。だから、後ろの「今年は厄年ですので、残りの半年無事に過ごせますようどうかよろしくお願いいたします」には、もう疲れました耐えられません、の意味も込めている。届くか届かないかは別として。
駅へと着いた。電車を待っている。
(しかし、暑いな)
ここまで来るまで、かなり汗をかいた。そして今、少し体が重い。電車を待っているのでやっとだ。さすがに、25度を超えると体が持たない。
「早く着け、電車」
そう心の中でつぶやきながら、私は電車を待った。帰りは赤羽から乗り換え、途中で休憩を挟みながら、なんとか自宅へと帰ることができた。
(埼玉の名所の話に続く)
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