【エッセイ】相模②─大庭城─(『佐竹健のYouTube奮闘記(27)』)
藤沢駅に着いたあとはバスに乗り換え、大庭城へと向かった。
バスは市街地の中を駆け抜け、どんどん郊外へと進んでいく。途中遊行寺といったいかにも由緒ありげな地名の場所を通りながら。
(そういえば、大庭城にはこんな伝説があったんだっけ?)
私は先日Twitterでフォロワーさんから聞いた大庭城にまつわるある伝説を思い出した。
戦国時代に北条早雲が扇ヶ谷上杉朝良のいる大庭城を攻めたことがあった。
早雲は大庭城を攻めるのに苦戦していた。
当時の大庭城は、沼地に囲まれていた。その沼地が、城を攻める早雲率いる北条軍の行く手を阻んでいたのだ。
だが、ある日のこと。北条方の武将が、餅を売っていたおばあちゃんに出会ったことがあった。武将は沼地の水のことについて、餅売りのおばあちゃんに聞いた。
餅売りのおばあちゃんは、
「堤を切れば水は引くよ。川から水を引いているからね」
と答えた。
大庭城の攻略法を教えてもらい、喜んだ武将。だが、この老婆は何かしらの意図があって教えたのではないか? いや、意図がどうのこうの言う以前に、どうしてこんな機密を知っているのか?
いろいろ不審に思った北条方の武将は、餅売りのおばあちゃんを斬り殺した。そしてその後、先ほど殺した餅売りおばあちゃんの言っていたことを実行した。すると、沼の水はみるみるうちに引いていった。
沼の水が引き、勢いに乗った北条早雲の軍勢は、無事大庭城を陥落させることができた。
餅売りのおばあちゃんの死を悲しんだ村の人たちは、供養のために地蔵を建てた。
まとめると、こんな感じの言い伝えだったか。
「次は、舟地蔵、舟地蔵です。お降りの方は──」
フォロワーさんが教えたことを思い出していると、バスのアナウンスが聞こえてきた。
(あ、そういえば……)
フォロワーさんが話していた、残酷すぎる死に方をした餅売りのおばあちゃんの供養のために作られた地蔵の名前は、舟地蔵だった。このことを、バスの中で流れたアナウンスを聞いて思い出した。
舟地蔵前のバス停で降りようかな、と思った。けれども、大庭城へ行った後に鎌倉も寄りたい。また今度寄るときに行こうかな。
とりあえず私は、舟地蔵へ寄るのを辞め、次の大庭城址公園前のバス停まで乗ることにした。
大庭城の入り口は森になっていた。入口に生えている木々によってできた影が、冒険のにおいを漂わせている。この中に何かがあると考えると、胸が高鳴ってくる。
城跡がある森の中へ入る。中は小高い山になっていて、目の前には整備された登山道みたいに、杭や板などで仕切られて段々になっている道があった。
その道に沿って、私は歩く。
中腹辺りは幅の狭い道がずっと続いていた。その脇には、そこそこ大きな杉の木や笹が急な斜面に生えている。
頂上に着いた。
頂上はぱっと見どこにでもある公園みたいで、特に城跡っぽい感じはどこにも見受けられなかった。
「もしかして、大庭城(推定)とかじゃないよね?」
私は正直がっかりした。先ほどのRPGゲームのステージみたいな入り口を通って、山道のような道を通ってきたのに何もなかった。けれども、もう少し奥に行けば何かがあるのではないか? と思いながら、奥へと進んだ。
奥へと進むと、左脇に加工された謎の石の列があった。
(なにこれ)
そう思った私は、近くに案内板がないか探した。
案内板はすぐに見つかった。近くの看板に書かれていた。看板によると、この石の列は、高床式の建物の礎石が出てきた場所なのだとか。
(ああ、そういうことか)
私は納得した。ここに建物があったのか。かつてここにあった建物は、一体何に使われていたのだろうか? 高床式の建物だから、きっと鼠に食べられてはいけないものを保存していたのだろう。
とりあえず、何かしらの建物跡がここから発掘されていることを知った私は、城跡だということを認識できて安堵した。
奥の方へと向かった。奥にはバラ園があった。
時期が時期ということもあってか、バラはあまり咲いていなかった。だが、目の前にあった少し紫がかった青いアジサイの花は、満開に咲き誇っていた。
(アジサイきれい)
そう思った私は、アジサイの動画を撮った。
大庭城を出ようかなと思っていたとき、
「からほり」
と彫られた石碑を見つけた。
石碑の向こう側には、藪になっていてわかりにくかったが、かすかに窪んでいた場所があった。確かにそれは、空堀のそれだった。
(なるほど。ここが空堀だったか。となると、空堀跡があるということは、他にも何か残っているんじゃないか?)
そう思った私は、周りの景色に目を凝らした。
すると、その近くに不可解な盛り上がりを見つけた。
不可解な盛り上がりを見た私は、これってもしかして土塁なのではないか? と思った。城跡にある不自然な土の盛り上がりは、大体土塁であることが多い。
上野国の城めぐりで説明し忘れていたが、土塁とは、堀を作る際に出た土で作った城の防御施設の一つである。用途としては、矢や鉄砲などの攻撃から身を守ったり、相手よりも高い位置から攻撃をしたり、敵の侵入をしづらくするために使われた。
空堀や土塁といった中世の遺構がしっかり残っていたことに、私は感心した。
中世の城跡は、遺構がしっかり残っている場所が少ない。開発で古のものが消えつつある東京23区内やその郊外の市は特に。そのため、堀や土塁の一部が残っているだけでも、ここに城があったという事実を後世に伝える貴重な証拠になる。
(さて、行こうかな)
次の目的地鎌倉を目指すため、私はバス停へと向かった。
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