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母になりたいなんて思ったことが無かった

女性の生き方を指南する雑誌や本は、巷に溢れている。年齢や趣味嗜好をもとに細分化され、驚異的な高倍率の就活を勝ち抜いた、自分らしく生きる女性たちが編集した雑誌の数々。キラキラした表紙が踊る。死にそうな目をした人で溢れる電車の中吊り広告、いくら出版不況と叫ばれても、女性誌は未だに、眩しい。いつまでも、やはり、デニム。もしかしたら、何十年も、デニム。そして、着まわし術。一体、何度読めば、着まわしが完成するのか。数着で済むのなら、10年前の着まわし術を一回読めば、その後はみんな平和に生きられそうなものだが・・いや、そんな野暮なことは・・。季節や「今年の流行」というものがあるのであろう。そんな風に、中年のオヤジのような視点で、中吊り広告をチラ見しながら、結局、文春と新潮の記事と、芸能人や政治家の、絶妙に嫌〜な表情を切り取っているセンスに感心しつつ、まっすぐにテレビブロスとSPA!だけを買い続ける日々を、もう何年も続けている。


閉塞的な地方都市で幼少期に辛酸を舐めた、こじらせ女子(©雨宮まみ先生)である私にとって、自分にしっくりとくるような、人生のプランというものは、女性誌には全く掲載されていなかった(そもそも買ったことはほとんどないので、美容院で見かける位だが)。家族や親族から、あまりにも外見に対し否定的な意見を浴びて生きた幼少期により、おしゃれに興味を持つという健全な自意識が皆無だったため、女性向けの雑誌の情報は一切自分に合わなかった。しかし、自分のような女性は、どうやら、かなりマイノリティーらしく、女性の友人からも、共感してもらえる要素が皆無であった。女性同士の人間関係は「共感」がとにかく重要である。

昨今は、ブログやツイッターなどを通じ、もう少し多様な女子のあり方が表明されているように思うけれど、それでも「おしゃれ」と「料理」と「コスメ」は必須、みたいな感じは根強くある。

そんな自分にとって、女性としての自己実現の究極のゴールのように描かれる、妊娠、出産世界は、バファリンの半分が優しさでできているならば、半分以上が自分にとって苦手なものだけで出来ているように感じられ、できる限り、足を踏み入れたくない場所であった。どうしてそんなに妊娠・出産に恐怖を覚えていたのだろうか。

性別的には女子なのだが、女子的なもの全般、および、女子の集団の陰湿さが、心の底から苦手なのである。思いおこせば、すでに、青いスモックを着て桃組に所属していた、幼稚園児の頃から、苦手であった。幼稚園時代は、いつも男の子に間違われていた。今でも、覚えているのが、一人で絵本を読みながら、特に何の意識もせず、あぐらをかいていたら、「ねすぎさん!その格好、行儀がわるいよ!」と突っ込まれたことである。彼女は、活発でおせっかいな、実家が個人商店で魚屋でやたらに人に話しかけ、世間的には「良い子」とされるような、足の速い女子であった。幼稚園児・・・子宮を出てから4年しか経っていない年齢なのに、その頃からすでに、活発な女子たちは、すでに心に姑を飼っていた。日本人なら誰もが飼っている、「心の姑」を思い切り発動させ、生活上全く必要のない、細かい観察を元にして断罪する攻撃を浴びせてきた。未婚既婚問わず、この、誰もが飼っている「心の姑」には、生涯をつうじて悩まされている。

女性らしさが皆無な女性というのは、社会的に非常にマイノリティーである。しかし性別が女性であることに対し、生物学的な違和感があったわけではない。しかし、マウンティング(©瀧波ユカリ先生)をしかけてくる女性からは、生涯をつうじて小馬鹿にされる。もちろん、男性からも、女性的なことへの興味の無さをいじられるため、男女平等指数の世界ランキングで圧倒的な低ランクに位置する、男尊女卑思想にどっぷりつかった日本の「世間的な常識」を身につけた男女両方に、若干少しずつじわじわといじられるという、なんともいえない体験が、幼少期から今に至るまで、多かったように思う。


小渕首相が「平成」と両手で持ってから28年の平成の世の中で、規範とするものを見失ってしばらく経っている。以前の、閉塞的な昭和世界に比べれば、amazonによって欲しいものが次の日に届いたり、コンビニスイーツが値段の割に激ウマだったりと、生きやすくなった部分は確実にあると思う。しかし、世の中はSNSの進化とともに、「女性らしく、一人の自分らしくある努力」、「人脈の有無」、「キャリアアップに励む自分」、「日々蓄えるスキル」、「日々のランニング経過」、「美味しいラテとその表面部分に描かれた絵」、「素敵な同僚と食べる高い肉」、「国内旅行」、「海外旅行」、「仕事終わりに飲む美味しいビールと素敵な仲間たち」、「最近見た映画や舞台(そしてそれに伴い文化的な生活を送るジブン→これは割と耳が痛い)」等を、日々、不特定多数の人々に見せつけ続ける世界へと変貌していった。


子供を持つべきなのか持たないべきなのか、果たして生殖能力が自分にあるのかないのか、それらの狭間で何年もたゆたっていた身にとって、何よりもキツいのが、生まれた日からリアルタイムでずっと子育て状況をアップするSNSの文化であった。この文化が、SNS上で強固に出来上がってしまい、友達ならまだしも、友達の友達・・くらいの誰だかよくわからん人々の子育ての様子を、リアルタイムで目にしてしまうことが増え、その現象は本当に苦痛でしかなかった。まあ、自分も別のしかたで(©千葉雅也先生)「日々サブカルっぽく生きている自分」をフェイスブックで表明していたので、それが誰かを不快にさせていたかもしれないが。

そんなSNS文化隆盛の中、母になりたいなんて、思ったことがなかったが、生物学的には女性であるゆえ、母になりたいないなんて、思ったことがないなんて、言えないよ自分、という苦悶の状況を、何年も生きることとなった。ほんの少ししか接点がなかった、微妙に遠い関係の知人の子供たちの成長の様子を、見たくもないのに、日々見せられ続ける世界。母親としての自意識がPC上に溢れ出る。手作りの料理や洋服、子供の成長を祝うイベントが無数にアップされ続ける。微笑む母親と子供たち。SNSがなければ、ほんのわずかな人しか目にすることがなかった、家族イベント。頼むから、アルバムだけで完結してくれ・・・。読みたくなければ表示しない設定にできるので、今はそうしているが、始まった頃はその方法がわからなかったし、なんだか悪いような気がしていたので、ひたすら目に飛び込んできていて、誰に何も言われたわけでもないのに、子育てを、いつかしなければならないのだろうか・・と、ひっそりと重圧を感じていた。


母親との関係が良好なものではなかった自分にとって、そんな重圧を日々感じながら生活するというのは、辛いものがあった。そもそもはマークザッカーバーグが大学時代に彼女にふられた腹いせに始めたような(違ったらスミマセン・・確かそんな内容だった気が)サービスにより、極東の日本でも、苦痛でしかない世界が到来してしまった。


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