璦憑姫と渦蛇辜 20章「紅い花の島」③
草扉を掻き分けて向かってくる人の気配に、三人が振り返ると亜呼弥の姿があった。
亜子弥も三人の姿を見つけると、歩幅を大きくしてずんずん近づいてきた。
「どうして亜呼弥だけ除け者なんですの! 」
肩をいからせて立ち止まると、タマヨリとそう変わらぬ背をぐいっと伸ばして迫ってくる。
「なんじゃなんじゃ。何をそんなに怒ってるんだ? 」
タマヨリが後退りながらたずねると、
「亜呼弥だけ浜に来てはいけないと仰ったのはタマヨリヒメですね。どうしてなんですの? 」
と詰め寄った。
「人は足りていたのだよ。気分のいい仕事でもない。おまえが来る必要はないとタマは考えてのことさ」
そう云った浪に「お父さまは黙ってて」とピシャリと云うと、
「じゃあどうして、イトメやヒルギは来させたのよ」
となおも詰め寄る。イトメとヒルギというのは、イオメ夫婦の子どもで亜呼弥の遊び仲間でもある。タマヨリは困ったように答えた。
「あの子らはたまたま、イオメと一緒にいたんだよ」
「それは良いとして、なぜ亜呼弥は来てはいけないと仰ったんですの?亜呼弥だけ! 」
「それはじゃな……」
ごまかせないと観念したタマヨリは云った。
「おまえには……若い娘の死体なんて見せたくなかった」
「イトメとヒルギはいいんですの? 」
「よくはないが……。おまえは巫女の娘だから、そういうものに過敏なのではないかと思ってな」
「そういうのを過保護っていうと、コトウが云ってましたわ」
亜呼弥がぷいっと頬を膨らませたのを見ていた礁玉は、
「いちばん過保護の爺やがよく云ったもんだねえ」
とせせら笑った。
礁玉と目を合わせた亜呼弥は、今までの勢いをなくし黙ってしまった。
父親がお頭と呼ぶその人は、美しいだけでなく何やら他の人とは違う雰囲気があるのだ。
島人となった海賊達をまとめあげているのは父親だが、礁玉は皆から別格の信頼を置かれている。いつもは洞窟に引っ込んでいるがここぞという時はいつも場の中心にいる。否が応でも人を惹きつける何かを生まれ持っているのだ。
礁玉は眼差しひとつで亜呼弥を簡単に手玉にとってしまう。
その目を細くして礁玉は、
「海賊の娘がお姫様気取りでまったく面白く育っちまったねぇ。おまえらのせいだよ、浪とコトウ……」
と呟いた。
「返す言葉がないですが」
まんざらでもない顔で浪は答えた。礁玉はため息をつくと、亜呼弥に向かって、
「まあ仕方ないさ」
と云った。亜呼弥は過保護の話が続くのかと思ったが違った。
「おまえの母は殺された兵士を目の当たりにして、臥せっちまったそうじゃないか。だから余計な気働きしちまうんだ、タマは。分かってやんな、おまえは母親に瓜二つだ」
と続けた。初めて聞く話に、亜呼弥の口からするりと「はい」という言葉が出た。
そこへ今度はハトと不知火がやってきた。
「お頭ー!ハトが迎えに来たよー」
「母ちゃーん!釣れたぞ! 」
釣果を浪と礁玉に報告するふたりを横目に亜呼弥は知らん顔をきめている。その様子に、
「おや、また喧嘩しているのですか? 」
と浪が云った。日が落ちたら夜ですね、と云うのと変わらない口調だ。
「喧嘩するほど仲がいいっていうよなあ」
とタマヨリが不知火と亜呼弥を見比べた。ふたりは素知らぬ風を装ったが、ハトにおぶわれた礁玉と共に去る際に不知火は、
「すげー魚獲ったから、後で見に来いよ! 」
とがなるようにして伝え、そのまま走り去った。
「いつまで経っても子供っぽくて嫌ね」
亜呼弥はその背に呟いた。
浪が彼らに続き丘を下りはじめても、その場から動こうとしない亜呼弥に付き合うようにタマヨリも残った。
「タマヨリヒメにね、見て頂きたいものがありますの」
亜呼弥はそう云ってタマヨリの手を取った。
「なんじゃ? 」
亜呼弥は浜辺をひと回りして潮溜りのある岩場へタマヨリを導いた。
引き潮の時に現れるお椀のような水たまりには取り残された小さな魚やヤドカリが、ちょろちょろと泳いでいる。
その潮溜りの中でも比較的大きな楕円形の水を指して亜呼弥は立ち止まった。
「亜呼弥には島のお外が見えますの」
「外?そりゃあ見えるじゃろ」
「そうではありませんの。この水に見たこともない景色が瞬きひとつの間だけど、見えますの。どんなに目を凝らしてもイトメとヒルギには見えないのに」
ははん、とタマヨリは思った。これは巫女の血だ。亜呼弥の母が水鏡を通して巫術を行ったように、娘もまた水を通してどこか遠くと繋がることができるのだ。
「そうか、さすが亜呼の娘じゃな」
タマヨリの言葉に嬉しそうな顔になったが、少し困ったように口をもごもごとさせる。
「でもそれはぼんやりとしてとても不確かで……」
「ふむう、そうか」
「亜呼弥はそれでは嫌ですの」
「なぜ」
「だって母上のように亜呼弥も先のことが知りたい。知れたらお役に立てるのに………」
「はははは」
とタマヨリはけろりとした顔で笑った。
「なーんも心配せんでええ。先のことなど見えなくてもなんてことないさあ。心配があれば皆で解決すればええ」
「でもでも……」
「亜呼弥は皆の役に立ちたいんじゃな。そんで持って皆から一目置かれたいんじゃな」
「そういう事では………」
「ええんじゃ。どんな事でもよくよく見ておれば、目で見る以上のことが分かってくる。だから亜呼弥がよくよく見ておけば、大きくなって浪よりも礁姐よりも重宝されるようになる。
それに巫女の力というのは神を身に降ろすことじゃ。ここはワダツミの島だから、もとから満ちているのだよ神さまの力が。だからなーんも心配はねえ」
「分かりましたわ。………でも」
と云って亜呼弥はタマヨリの手を強く握った。
「怖いんですの。……水の中から知らない女の方の声が、声だけが聞こえることがあって。その………タマヨリヒメを呼びますの、その声が恐ろしくて。ねえ、タマヨリヒメ! 何処にも行かないでくださいましね」
タマヨリは手を握り返した。
「もちろん。何処に行かねえよ。ここがおれの島だからな」
力強く握ったが水越しに呼ぶ声が誰のものか分かったタマヨリはぞっとするのだった。亜呼弥の身に何かあってはいけない。
「おれは何があっても島と亜呼弥を守るからな。覚えてねえじゃろうが、赤子のまえと約束したからな、怖い思いはもうさせねえって」
「はい」
その時だった。
雨も風も無縁の空模様のはずが潮溜りが激しく波だったかと思うと、水が渦巻き始めた。
「なんでしょう………」
と亜呼弥が怯えながら退いたのと、
「『いさら』! 」
と叫んでタマヨリが肚から儀仗を抜き出したのは同時だった。
「………なんとも不出来な水鏡であることよ」
渦巻く水が鎮まってくると水の中からくぐもった声がした。
「まあよいわ。のう、そこにおるのであろう………」
「亜呼弥、絶対にそこを動くな」
タマヨリは水鏡となった水たまりから亜呼弥を遠ざけた。そしてゆっくりとその鏡を覗き込んだ。
映っているのは乙姫だった。
「母上」
数年ぶりの対面だった。しかしタマヨリがその存在を心内から消し去れなかったように、乙姫もタマヨリへの態度はなにひとつ変わっていないことが表情から知れた。タマヨリは身を固くした。
「娘たちの躯が流れついておった。母上、おれはあなたに望むことはもう何ひとつないが、惨いことはもう金輪際してくれるな」
「気にいってくれたようでなによりじゃ、ほほ。島の結界は掌海神といえども破ることができぬ、なあ、汝兄殿………」
そう云って乙姫は頬に右手を、男の右手を擦り寄せた。
「ワダツミの! 」
それは今も血が通っているようにしか見えない切り落とされたワダツミの右腕だった。
『波濤』を持ったまま亥去火に切断され波座と共に海へ沈んだ右腕だ。乙姫が『波濤』ごと手に入れたのは予期されたが、その手も当然のように保持していたのだ。
「徒神は島になってしまわれたが、こうして身体の一部はここにある。娘どもの躯には結界破りの印を描いた」
乙姫はワダツミの指に歯を犬歯をたてた。指先からは糸のような血が一筋垂れた。
「これで」
艶やかに笑む乙姫にタマヨリは眉根を顰めた。
「堅い結界も同じ血肉でできたものなら受け入れる。死体を島に引き入れた事で、もう島と妾の水鏡は繋がった。そこにおるしみったれた巫女など介さなくとも、もう自在じゃ」
「そのために? 」
タマヨリが流れついた躯を埋葬することを見越して流したと云っているのだ。巫女の水鏡を通して探りを入れ、結界破りの法を編み出した。それに数年の歳月をかけたことの真意をタマヨリは測りかねた。
「ワダツミはもういない。おれはここで生きていく。……母上には云いたいことはたくさんある。でも云わん。おれはこの島と人を守って生きる。もう、関わり合うのはやめにしよう、母上」
「それができると思うてか」
「それがしあわせじゃ。互いの」
「ははははは」
乙姫はワダツミの右手を床に叩きつけ甲高く笑った。
「しあわせ? 妾の顔を奪い、肚竭穢土では軽薄さむき出しに逃げたくせに、しあわせじゃと? ワダツミといいおまえといい、妾を利用するだけ利用して。笑わせるでないわ」
「おれ、考えてたんじゃ。ずっと。母上の顔を奪ったのは申し訳ねえ。じゃがなんでそんな事をしたのかと考えた。それで………つまりそれは取り引きだったんじゃないかと。今の母上の無尽蔵の巫術と引き換えだったのじゃなかろうかと?なあ母上、その時、おれはなんと云っておった? 」
「その時?」
乙姫の顔に一瞬浮かんだのは恐怖と虚無とに支配された歪みだった。
「おまえに復讐することだけ想ったさ、その時は」
「ああ」
もう傷つく場所はないと思っていたタマヨリの、奥深いところにそれは突き刺さった。
泣くのは違うが心内で嵐のようなものが泣き叫んではち切れそうに膨らんだ。
それを時間をかけて飲みくだすとこう云った。
「おれは目も鼻も口も耳もいらない。髪も手足も、血だっていらない。母上が望むならなんだって差し出す」
「妾の好きにしろと申すか」
「そうじゃ。だから………一度でいいから許して下さい」
パシャリと水を蹴って亜呼弥がかけ寄った。
そのままタマヨリを後ろから抱き止めて激しかぶりをふった。口を固く結んだまま、二度と離さないかのように腕に力をこめた。
亜呼弥の肌を感じながら、タマヨリは長いこと乙姫と対峙していた。
先に口を開いたのは乙姫だった。
「おまえがおまえである限り、何も、何ひとつも許されない」
「…………」
「お前は半身を取り戻し、己ばかり安楽の場所に居座って、そうやって安穏と息をしておる。許されぬわ。陰府の化け物が。おまえの存在が罪穢れそのもの」
「それでもおれはおれを許すよ」
押し殺した嗚咽と共に生暖かいものが肩口を流れた。亜呼弥が顔を押し付けたまま泣いているのだ。
「愚かな璦憑に教えてやろう。おまえはしあわせになどなれぬ!そう、決まっておるのじゃ、最初からな」
絞り出すような高笑いと共に再び水面が波立ち、渦巻いて乙姫の姿は消えていった。
タマヨリの手から『いさら』が抜け落ちてぼちゃりと水面に跳ねた。
「お母さまですの?お母さまですの?タマヨリヒメの」
タマヨリは亜呼弥に正面を向かせると、両手で涙を拭ってやった。
「そうじゃ。おれを産んだばっかりにふしあわせになった人じゃ」
笑ってみせようとしたがうまくいかないタマヨリは、考えごとのそぶりで海に目線を送った。
この時ばかりは碧緑の海の広がりが眩しいほどいたたまれなかった。
「事情は存じあげません。でも、でも、しあわせになっていけない人などおりません」
今度はタマヨリに作り笑いではない笑みが浮かんだ。
「ああ、ああ亜呼弥よ。なんてことないさぁ、おれはしあわせになるよ」
20章終わり
次回、終章へ続く