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璦憑姫と渦蛇辜 16章「死者の行軍」②

 田は収穫の時期を迎え十分な蓄えを得て、賽果座はそのまま平穏な冬へと向かうかに見えた。しかし海の向こうでは予期せぬ事が起こっていた。
賽果座においてその異変に気づく者はまだいない。
鯨やイルカは事の起こりを同胞へ伝えた。魚類うろくず達は右往左往し、あるものは海藻の森へ逃げ込みあるものは岩の割れ目に身を潜め、またあるものはなるべく遠くへと逃れた。そしてそのまま海底の砂に潜んでいたもの達は、見たこともない生き物と遭遇することになる。
海が割れたのだ。
ワダツミが『波濤はとう』を揮った先の海の水が左右に退いて、巻き上がる海水の壁の間に海の底が露わになった。
肚竭穢土ハラツェドから賽果座に向けて、海は裂けて島伝いに道ができた。
道の先頭を駆けたのは、肚竭穢土の皇子岐勿鹿きなじか
続くのは肚竭穢土が誇る騎馬隊、その後に歩兵が続いた。

 誰が空絵を描けただろう。
嵐で多くの船を失った国が、はるばる攻め入って来ようとは。
航海に長けた海洋国家でも、百頭の馬を連れて海を渡るのは至難の技だ。
しかし陸のように進む事ができるのなら、それもできない話ではない。
ワダツミは肚竭穢土に迎え入れられた。
賽果座の宝珠の奪還を条件にその神力をかしたのだ。
彼にすれば人が治める国のことなどまるで興味がないのだ。勝つも負けるも関心の外だ。ただ圧倒的な武力が意表を突いて雪崩れ込む様を見物したかった。

 水無しの往来といえど、山あり谷ありの道だった。
道が悪いと見ればワダツミは、自在に水を動かして新たな道を作り出した。
波の獣に輿を牽かせ、彼が進めば進んだだけその先の水が自ずから退くのだ。
そのワダツミの世話役が於緑耳おみじだったが、岐勿鹿は自らもワダツミの機嫌をうかがうことも忘れなかった。
ワダツミの輿と並走し、中をうかがえばウツボがにょいと顔を出してきた。

「まだ先は遠うございます。ワダツミ殿はお疲れではないか?」

ウツボが引っ込むと後ろにあったワダツミの双眸と視線が絡んだ。
無関心と怠惰に縁取られながら、これほど威圧的な目を岐勿鹿は見たことがなかった。
もし、彼の気が少しでも変われば道は閉じて己も兵士達も海の真ん中に放り出されるのだ。冷ややかなものが背中を走った。目が逸らせなかった。
波光色の髪の麗姿も肩に預けた『波濤』も全てまばゆいばかりに神々しいが、反面怖ろしくもあった。顔から手の甲まで刻まれた入れ墨の禍々しさがそう見せるのかもしれない。でも何よりその目が、虚無的な目に飲まれてしまいそうだった。

「………俺が疲れたと云えば、この街道を閉じてかまわないと?」

ワダツミがにやりと笑った。

「いえ!」

それでも岐勿鹿は背を伸ばして笑みを返した。

「お休みのご用意を致します。我らの『大海神おおわだつみのかみ』のご加護をどうぞお授け下さい。あなたの望むように賽果座の蛮族どもを征伐致してみせますゆえ」

「では休みなど要らぬ。参ろう、賽果座の逆叉さかまたがどう出るか楽しみだ」

「サカマタ、でございますか?」

逆叉は鯱の別名であり、鯱とは礁玉である。岐勿鹿は鯱を知らない。

汝兄なせ殿、ほかの女のことを口にしてはいや……」

不意にウツボが艶かしい女の声を出したので、岐勿鹿はぎょっとした。

「それよりあの親不孝者は賽果座に逃げたというではないかえ。どうしてくれようか………」

ウツボはワダツミの腕下を這って首へ絡みついた。水もないのにその動きは海中にあるようであった。

「タマヨリは放っておけばよい。邪魔立てするなら容赦はせぬが」

「怖れながら」

と岐勿鹿はワダツミとおそらく乙姫の使いであろうウツボに向けて話した。

「タマヨリヒメは賊に拐かされたのです。イサリビという海賊に。しからば私がお救いして差し上げます」

ワダツミの口元に笑みが浮かんでどろりと溶けた。

「知らぬのか?」

「はい。何をでしょうか」

「タマヨリはその亥去火という海賊の元で暮らしておったのだ。家族も同然にな。おまえよりは長い付き合いとなろう」

それを聞き岐勿鹿の顔は強張った。

「まさか……タマヨリは私を謀っていたのですか?海賊どもと通じ、屋敷の内情を探っていたのか、いや、まさかあの娘に限ってそのようなことは」

それを聞いたウツボが今度は皇子の首に巻きつくと、

「あれはそういうことを平気でする性悪じゃ。傷心のそなたに取り入って甘い汁だけ啜って逃げたのじゃ」

と囁いた。岐勿鹿の手綱を握る手が震えている。

「妾たちの手には負えぬのじゃ。母として頼む、あの碌でもない娘に遭ったらあの顔をズタズタにして妾の前に引摺り出してほしい。相応の罰であろう」

ウツボの口を借りて喋る乙姫の芝居がかった口調に、ワダツミは聞かぬふりを決め込んでいたが、岐勿鹿の方はその一言一言に心えぐられている。

「ああ、なんということだ……、なんという」

「どうじゃ、若き肚竭穢土の高潔な皇子殿、やってくれるかえ?」

岐勿鹿はきゅっと唇を噛んで虚になった視線を正した。

「大海神が妻、乙姫殿。あなたの頼みは引き受けかねます」

皇子を己の術に落とそうとしていた乙姫はその毅然とした口調に虚をつかれた。

「タマヨリのことは金輪際忘れます。あれは海が見せた蜃気楼だったと。しかしお約束通り賽果座の蛮族どもは残らず成敗しましょう。そこにあの娘がいても手心を加えることはありません。私は全ての敵を滅ぼし、肚竭穢土の栄華の時代を創り上げる王となります」

皇子はワダツミに向き直り、

「偉大なる大海神の名の元に」

と結んだ。

「なるほど、大国の王となる者は違うではないか」

と返されたワダツミの言葉に頭を下げたが、彼の云うところは乙姫の術にはまらぬ我の強さを指していた。ウツボの向こうで乙姫は面白くなさそうに黙した。
 岐勿鹿の目指すところは終始一貫していた。
約束された王座を筋書き通りに貰うのではなく、誰もが畏怖し崇める偉大な王にならんとしていた。兄を超えたかったのだ。そして偉大な王である自分が尊敬する兄ならばこそ、万人も兄の偉大さを認めるだろうと考えた。それが兄伽耶釣への弔いであり、贖罪だった。
ワダツミは『波濤』を海水の壁の道の先端に指し向けた。すると一層遠くまで海は裂けた。

 

 その日の朝、胸騒ぎ覚えたタマヨリは弓なりに広がる浜辺へ出た。手に籠を持っていたのは、何事もなければ貝を拾って海賊達に届けてやろうと思ったからだ。
身を寄せている礁玉の住まいには十分な食料があったが、タマヨリなりに何かがしたかったのだ。
 薄い雲のかかった空は穏やかで、海は常変わらずのたりと波うっている。砂をかいて鯏を見つけると籠にそっと入れた。みっつよっつ拾ったところで動きが止まった。
波が砂を舐めるザラザラした音にまじって囁くような声が聞こえる。

ークルヨ……

タマヨリの心の臓が一度大きく跳ねた。

ー来るよ。来るよ。来るよ。

どくんどくんと波打つものが心の臓だけでなく、腹の中の『いさら』だと気づいた時、迷わずそれを抜いた。

ーワダツミじゃ。ワダツミが来る。


 その頃、海賊島から漁に出ていたウズとカイは漁場にしている沖の小島に馬の姿を見た。
野生の馬ではない。そもそも人も住まぬ小さな島に馬などいないはずが、沓まで付けた馬がいるのは怪しいことこの上なかった。
遠くから様子をうかがったが、生い茂る木に隠され何者かが潜んでいるのか見通せない。

「ともかくお頭に報告だ」

カイの判断で即刻、それは賽果座に知らされた。

 
 時を同じく物見台にいた衛士は信じられないものを目の当たりにした。

「高波か?」

そのおそろしく目のいい衛士は、はるか彼方の異変を見逃さなかった。はじめは蜃気楼か何かではないかと思ったが、彼の目は確信した。

「海が……!海が割れている!」

その知らせは一瞬にして賽果座を巡った。
礁玉はすぐに動いた。

「肚竭穢土だ!肚竭穢土が攻めてくるぞ!」

そう確信して戦支度をはじめようとする礁玉を亥去火は止めた。

「待てよ、あそこからこの国までどんだけの距離があると思ってんだ。しかも馬を連れてだと、ありえねえぞ!」

「いや、途中の島で水と食料を調達しながら進んだとして、その道筋上には沖の七つ小島がある」

と浪は云った。考えを巡らせる時の癖で虚空を凝視している。亥去火はそこに地図か何かでもあるのかと視線の先を追ってしまうが、全ては浪の頭の中だ。

「海に水がないと仮定すれば、この日数で進める距離だ」

「浪、おめぇ海に水がないわけないだろう」

「それが出来たら?」

と礁玉が二人を見て続けた。

「今、賽果座を攻めようと狙ってくるのはあの国しかない。そしてワダツミの後ろ盾があれば………」

「私達がそうしようと思ったように、あちらも全軍でもってこちらの戦力全て叩きにくるでしょう。もちろん得意分野でね。海に道を通すとは考えたものです」

「チッ」
亥去火は盛大に舌打ちすると自らの支度に取り掛かった。

「で、どうやって追い返す、浪?」

「できる限り沖の小島に足止めしてそこで潰すのがいい。ほとんど茂みだからあちらにとって地の利はない」

「おっし!」

「海賊島にいる連中を向かわせ、小島を包囲するんだ。だが、あちらはワダツミを擁している。舟で襲っても勢力を削ぐのが関の山で勝ち目はない」

「そうだな」と礁玉が相槌打った。

「本土へ攻め込まれたら戦わず沼地へ誘い込む。足場が悪ければ騎馬は不利だ」

「ワダツミは、どうする?」

三人の目が行き交いあった。

「とにかく『波濤』を奪い、本人から可能な限り遠くへやることだ。それであいつの力は半分は削げる」

「分かった。それは、俺がやる」

亥去火が押し殺した声で云った。
しばらくの沈黙の後、浪が云った。

「すまないがお頭、亥去火。一度、やしろに戻りたい」

それ聞き礁玉の表情が和らいだ。

「ああ、どさくさに紛れて赤ん坊をどうにかされたらたまったもんじゃないからな」

亜子弥あこやはコトウに預ける」
「それがいいな」
と亥去火もうなづいた。

「さあ、戦の支度だよ!」

礁玉は控えていた海賊達に向かって云った。立ち上がった礁玉に向けて歓声が湧き起こった。

「のこのこおいでになった肚竭穢土サマに吠え面かかしてやろうじゃないか!」

おおおおおと先程より太い歓声が上がった。

「さあ、お前たち!神の首を獲るときがきたよ!」


続く







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