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璦憑姫と渦蛇辜 18章「月代の船出」④

 白々とした月に照らされて賽果座サイハザから出た舟は二艘きりだった。

 賽果座の王は和睦の受け入れへと迷わず舵を切った。海賊達を岐勿鹿皇子きなじかのみこと、おそらく相伴っているであろう『大海神』のいる沖の小島に近づけさせぬよう計らっていた。
昨日、小島の包囲に水軍として出した舟は、王の配下によって陸に撤収され、見張りのため沖に出された数隻にも王直下の水夫が配されている。
淤緑耳おみじは礁玉が逃げたと聞いたが驚きはしなかった。
ワダツミの残した威光を最大限に利用することで、王族を手懐け、海賊の頭はどうやら遁走、さらに海賊達の足を奪い目的はほぼ達せられたのだ。母国への帰還の風待ち波待ちの間に、皇子は賽果座を掌中にすればよい。
それよりも数日後に届く始肚鹿王逝去の報に頭を抱えることになった。
その後の肚竭穢土については別の語りとしよう。

さてそんなわけで、カイが手回しできたのはいつも彼らが海賊島との航行に使う、使い古した丸木舟二艘だけだった。
外洋に漕ぎ出すには相応の舟を必要とした。その上、慣れた航路ならまだしも何処とも知らぬ海へ漕ぎ出すのは心許ない。

「夜通しだって俺たちゃ漕ぐぜ」

と太い腕を見せて勇み足を踏む海賊達を前に、浪は確かめなければならなかった。

「もうこの国に戻ってくることはない」

海岸には五十人近い海賊が集まっていた。古株数名を除いて海賊たちは近隣の水潮から集った者たちだった。
故あって住む土地を追放された者、食うに困って人を襲うようになった者、
拿捕した舟の漕ぎ手だった者、征服した土地で引き抜いた者。その中にも礁玉を恐れる者、敬う者、慕う者といろいろである。
海賊稼業から足を洗う機をうかがっていたものは、先の側近の追撃に加わり抜けている。

「これから我々が相手にするのは手負いの神だ」

気の荒い海賊達はそう聞かされても勢いを失わない。

「負傷している者、女、年寄り、十二より若い者は置いていく」

「なんだってあんたが決めるのさ!あたいらはお頭のためならどこにだっていくよ!」

勝気な海賊女たちが抗議の声をあげる。

「はっきり云おう。これは死出の旅だ。船に乗れる人数も限られている。
戦力になることが最低条件だ。ここに残れば、他の生き方もあろう」

その後は浪の説得に応じる応じないの喧喧囂囂の席取り争いになった。結局、出航は日が傾くころとなった。
乗り込んだのはタマヨリを加えて十二人、いや正確には十三人だった。
タマヨリと浪が乗った舟はひときわ使い込まれた老人のような舟だった。 

「こいつは誰より波をかいくぐってきた舟だ。ワシが島を抜けた時に使った舟だ、おまえらとな。どんな時化しけでも沈まなかった舟だからよ、どこへだっていけるさ」

その舟の腹を撫でながらコトウは云った。

「ああ。あんたの傑作だからな」

「この船首の角度がな、そんじゃそこらの舟とは似てるようでいていないんだよ。舟は自ずと舟自身が形を決めるのさ、まずワシが探した木はな……」

「舟の蘊蓄を聞く前に、コトウには聞きたい事がある」

「なんじゃ」

「なんで亜呼弥あこやを連れてきた」

浪の視線の先には狭い舟の中で、コトウの膝を頼りに立ちあがろうとする赤ん坊がいた。十三人目である。

「いかんかったか?」

舟の揺れで赤ん坊がよろけるとコトウは慣れた手付きで支えてやる。

「どこに向かっていると思っているんだ」

「どこへ行こうが、海の民にとっちゃあ海の上が寝床よ」

「そういう事ではなくて」

「あああ分かってるよ」

「何が」

やしろに置いておくことも考えたさ、だが賽果座が肚竭穢土にくだるのは目に見えておったわ。王は礁玉がつかまらん代わりに巫女の娘を差し出すなどと抜かしおる、けっ」

「それで連れてきたのか」

「そうさ。赤ん坊ひとり守れずにどうしてお頭を取り戻せるんだ」

「それが最善手ではなかろうと云っている。今なら海賊島に亜呼弥とイオメを置いていける」

浪の云ったイオメというのは、一味の女であり亜呼弥の乳母であった。産んだ子が育たず終いとなっても乳が出るので、母を亡くた亜呼弥へ与えるようになった。

「イオメがなんだって!」

船尾で山芋を齧っていたイオメが顔をあげた。

「亜呼弥と島で待っていろ」という浪の言葉を、

「絶っ対にいやだね」とはねのけた。

「あたいはダンナが行くとこにはどこだってついていくんだから降りないよ!」

イオメにダンナと呼ばれた髭の男カイセツは、無言で櫂を漕いでいる。

「それにお頭が危ねえって云われてあたいはいても立ってもいられないんだからさあ!ねえあんた!」

「………ああ」

夫は髭に覆われた口を僅かに開いた。

「それにさあ、ワダツミってああ見えて神さまなんだろ。神さまがこんな赤ん坊の命までとったりはしないよ、なあタマ」

「そうじゃな。ワダツミはああ見えて………、まあ見たままじゃが、でも気まぐれには…………優しい時もなくなくもないぞ」

タマヨリは這い寄ってきた赤ん坊を抱き上げた。

「へへへ、ええ肉付きじゃな。結構重いなぁ」

「ほらタマが大丈夫って云うんなら大丈夫なんだよ!」

とイオメは威勢よく話を打ち切った。

「いや、大丈夫とは云っておらんが」

と浪は呆れ顔になったが、それ以上は何も云わなかった。


 前後して進む舟の先行には、浪、コトウ、タマヨリ、亜呼弥、イオメとその夫とハトが、後続にはウズとカイと四人の海賊達が乗った。
結局、浪がイオメと赤ん坊の乗船を許したのはタマヨリによるところが大きかった。
陸に娘を置いてきたとして、下手をすれば取引きの駒にされてしまう。人に利用されるだけの存在であることは浪の望むところではなかった。
海ならば行く先に自由がある。
礁玉と亥去火が確然とそう信じるのを、浪は半信半疑にとらえていた。云ってしまえば実のない言葉だと。
しかし陸を追われる者は夢を見るのだ。海原に在ってはただ自身に由るしかない。生きるも死ぬもだ。茫漠とした広いばかりの水盤が己次第で航路になる。その道を行く者が携えるのは自由だと、夢物語を聞き語るような心持ちで浪は思った。
海と空との間に求める礁玉と亥去火の姿だけを思った。そうすると空と海とにふたりの気配が濃密に満ちてくるのだ。半ば眠りの中にいるようである。月は白く煌々と、水平線の彼方から何かが手招いてくる。誰も見たことも辿りついたこともない国がそこにあると云われても、今の浪ならば信じただろう。

 櫂を漕ぐのは人の手だが、舟を進めるのに海の死者も力をかした。タマヨリが小さく唄えば海から白い光の玉が昇ってきた。祖先の魂達は寄り集まって舟を押したが、舟に乗っている者には姿は見えない。彼らは波となって舟を押した。
タマヨリは自らが呼び寄せた魂の中にひときわ光る玉があるのに気がついた。それが他を束ねているようにも見える。その魂が礁玉と亥去火の祖父にあたる勇者エリパシだとは夢にも思わないが、きっと勇敢な魂なのだろうと思われた。

 賽果座の島影は後に消え茫漠とした黒い水の上を舟は進んだ。タマヨリは船首に座っている。『波濤』と繋がった『いさら』の声をたどって、真っ直ぐに恐ろしいほどの速さで進んでいく。
舟に乗せられて始めは神妙に黙っていた赤ん坊は、しばらくするとむずかりはじめた。
コトウが赤ん坊の下衣を解いて、海に向けて「しーしー」と云うと、それが合図だったかのようにピューとおしっこを飛ばした。それからイオメから乳をもらうとそのままパタリと眠ってしまった。

「ほれ、よこせ」

とイオメの胸から赤子を受け取るとコトウは骨ばった腕の中に収めた。

「コトウがそんなに子ども好きだとは知らなかった」

とタマヨリが云った。

「別に好きっちゅうもんでもないが、面白いだろ」

「面白いんか?」

「予想がつかんもんが面白い。赤ん坊に比べたら大人のすること考えることなど、似たり寄ったりで実に面白味がない。それに、予想がつかんもんを予想して合っておったらまた楽しい」

コトウらしい考え方だとタマヨリは妙に納得した。

「それに見てみろ。何の罪穢れもない顔をして………」

「ああ、そうじゃななぁ」

タマヨリは頼りなく眠るだけの赤ん坊に、温みの底に脈打つような力強さを
感じた。
死出の旅になるかも知れぬのに、亜呼弥がいるだけでそこには新天地を求めて旅しているかのような希望さえ滲み出すのだ。

亜呼弥の白くふっくらとした頬を見ているタマヨリの胸には、満たされていく感じと同時に針で刺されような痛みが萌した。
赤ん坊の握りこんだ小さな手に触れてみるがスンとも云わない。それを眺めながら、例えばすやすやと眠るわが子に乙姫はどんな視線を向けたのだろうと思った。
乳がなければ育たない赤子に一度ならず乳を含ませてやったことがあったのだろうか。呪いに気づく前は愛おしく思うこともあったのだろうか。生まれてすぐに打ち捨てられたならこうして生きてはいないだろう。一度くらいは赤子の笑みにつられて微笑むこともあったのではないか。

ーなあ、お母さ………。

そんな乙姫をまるで想像できない代わりに凪女なぎめの姿が思い浮かんだ。
凪女は今の己と同じ目で小さなタマヨリを見ていたはずだ。そして生き延びてほしいと願い遠くの島へ逃したのだ。
その凪女に乙姫は惨い死を与えた。
許しがたいと同時に、乙姫の丸ごと全てを恨み呪うのはそれはそれで躊躇われるのだ。

ー覚えていないことのために、いったいいつまで心を縛られていなくてはいけないんだろう。

底のない昏い淵が足元に開いて何かが呼びかけてくる。愛されることと許されることは同義でも、おまえは愛されようがない、と。
乙姫が望むなら血の最後の一滴でも差し出すのに、それよりもっと大切なものまでよこせと云われる。どこまで行っても贖えない罪があると彼女は云う。
母親が罪だと云えばそれは己が預かり知らぬことでも罪なのだろうか。
結びつけば結びつくほど蝕まれていくこれを何と呼べばいいか、タマヨリには分からない。
それら全てから逃れるには『竜宮』へ行くより他はない。そこは磯螺いそらの云う苦しみのない世界、ワダツミの云う己のない世界なのだから。
そう考えはするがねぶるように心内を幾重にも確かめなければ、後ろ髪ばかりひかれてしまう。

ー亜呼は逝ってしまったが、亜呼と浪の子はこうして居る。この子はこれから大きくなるんじゃ。ああ、大きくなるところが見たいなぁ。そばでずっと見ていたいなぁ………。

櫂のひと掻きで舟は滑るように先へ先へと進んだ。島影はなく、月が落とす道が波の上に光りながら続いていた。
誰ももの云わぬ船上で、タマヨリは飽きず赤ん坊の肌をかまい続けた。




18章終わり

続く




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