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福間良明『「勤労青年」の文化教養史』 : なぜ、こんな日本になってしまったのか

書評:福間良明『「勤労青年」の文化教養史』(岩波新書)

本書で語られたことの意義を端的に言うなら「なぜ教養は必要なのか。必要な教養とは、どういうものなのか」ということになる。

最初に「なぜ教養は必要なのか」について、わかりやすい実例を示そう。
自民党の大物政治家だった古賀誠が、インタビューで「大平正芳の想い出」を、次のように語っている。

『 僕は大平正芳先生。(元首相、1980年死去)が亡くなった時の選挙で初当選して、たまたま田中六助先生(官房長官、通産相などを歴任、1985年死去)のかばん持ちをしていましたから、大平内閣の閣議などは見ることができたんですが、それはもう侃侃諤諤、それぞれの大臣が思いの丈を語っていたものです。大平さんはそういった意見を全部聞き取って、「それで結構です」「みなさんの考えをどんどん実行してください」「責任は私がとります」というまとめ方をされていました。』(青木理『時代の抵抗者たち』P69)

読書家として知られ、「文人宰相」と呼ばれた人の風格が、目に浮かぶようである。
この「風格」は、(それがすべてではないにしろ)「教養」による「人格陶冶」によってもたらされたものであるのは、言うまでもない。

さて、それと比較して「わが安倍晋三総理や、麻生太郎大臣閣下」は、どうだろうか。
一一無論、彼らには「教養」もないし、「人格の陶冶」もない。

だからこそ、誠実さの欠片もなく(ザ・ブルーハーツ)、人を馬鹿にしたような半笑いの表情で、無内容なことをぺらぺらと多弁に捲し立て、嘘をつくこともだって平気の平左なのである(「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」発言等々)。

つまり「教養」と「人格の陶冶」の必要性が語られなくなった結果として生まれたのが、今の「安倍晋三内閣総理大臣」に象徴される、「浅薄な人格」なのだと言えよう。

そして、言うまでもなくこれは、安倍晋三個人の問題には止まらない。ああいう人間が生み出される文化的背景が、今の日本を支配している、ということなのだ。
だからこそ、本書の著者は、次のように言う。

『「何をなぜ学ばなければならないのか」という点については、意外に議論されることが少ない。「人文社会系の知はなぜ必要なのか」「格差社会のなかで教養にどう向き合うのか」といった素朴だが根源的な問いは、今日ではほとんど思い起こされることはない。』(P280)
『 格差と教養の結びつきが、とくに一九六〇年代半ば以降、失われたことで、「ノンエリートであるにもかかわらず、人文知を模索しなければならない」という価値規範は急速に消失していった。人文知(あるいはそれに近い領域の社会科学の知)は、大衆的な支持基盤を失い、ごく一部の知識人のみに閉じる傾向が顕著になった。
 そうなると、「人々の生や社会のあり方を、目に見える範囲で超えて、深く、多角的に、かつ根拠に基づいて思考しなければならない」という規範の社会的な共有は難しくなる。SNS等を通して、知識人ならずとも、自らの思考を公にすることは容易になったが、そこでは、論理性や根拠を欠いた思い込みのようなものも、広く流通している。排外的ナショナリズムや史実への目配りを欠いた歴史認識が多く出回り、「フェイク・ニュース」の広がりは加速している。何かを吸収し、発信するうえで、「自らの知識や理解が十全ではないことを認めたうえで、それらを高める努力をしなければならない」という謙虚さは、そこには見られない。かつて見られた教養への憧憬は、一面では、こうした謙虚さのあらわれでもあった。
 さらに言えば、実利に直結しない人文社会系の知が人々から乖離し、浮き上がってしまうことは、社会を長期的な視野で捉え直す営みが薄れることにつながる。社会のひずみは、そう簡単に解きほぐせるものではない。長期的な視野で多角的に、そして地道に粘り強く思考することを積み重ねるしかない。それを避けて性急な「解決」を求めることは、しばしば自国中心主義的で「他者」の痛みを顧みないポピュリズムにも結びつきやすい。物事を俯瞰し、相対化する人文社会系の知への関心が人々から遠のく現状は、こうした動きとも無縁ではない。』(P274〜275)

つまり、日本の「人格的なもの」の現状が、このような「頽落したもの」になってしまったのは、単に「教養」が失われたということではなく、そもそも「なぜ教養が必要なのか」といった部分についての理解が足りなかったからなのである。

著者が本書で、諄々と「教養主義」の歴史的な歩みとその消失を語るのも、かつて考えられていた「教養主義」というものが、結局は「個人の不全感の裏返し」や「個人の社会的な栄達の道具」や「個人の趣味的満足」といった「個人の問題」に終始して、そのためにそれが「個人の実利実益」に結びつかないとなると、その必要性までまるごと見失われるという結果を招来した、という歴史を跡づけるためである。

たしかに、「教養」というものは、個人に「即効的な実益」をもたらすことは少ない。けれども、「教養ある個人」が社会を構成することによって「人間性豊かな社会」を構築できる、という「社会的実益」は確かにあるのだ。
「貧すれば鈍する」というのは、「個人」に止まる問題ではなく、「社会」にもあてはまるものであり、「個人の教養」が失われた結果、社会(的な精神性)が貧困化すれば、結局はそれが「個人」への不利益として還流してくることにもなるのである。

私たちは、かつての「教養ブーム」が「何」を求めて広がったものかを知り、「何」が得られなかったがためには失われてしまったのか、という「失敗事例」の意味するところを検討する必要がある。
「なぜ教養は必要なのか」「そもそも必要な教養とは何なのか」。それを知らなければ、私たちはかつて辿った道を、また辿るしかなくなるだろう。
だからこそ本書は、「過去のあやまち」を繰り返さないためにこそ、その「失敗の道程」を丹念に描いてみせてくれたのだ。

個人が「教養」を身につけるということは、個人がオタク的に「知識」を身につけて、それで自己満足する、というようなようなことではない。
身につけるべき「教養」とは、個人の精神と見識を豊かにし、その結果として、おのずと「社会」を豊かにするものでなければならない。

「無教養」のゆえに「視野が狭く世間の狭い」人は、おのずと「半径5メートルの幸福」を求めることしかできず、その外で進行している「危機」については、おのずと鈍感であらざるを得ないだろう。
それとは逆に、「教養」とは、私個人の実利実益を超えて、社会全体を見通すことのできる眼鏡であるからこそ、「半径5メートル」の「外」を適切に観察し、その危機に配慮することをも可能にするのだ。

真の「教養」とは、目先の事例を通して、それを超えていく能力を人にあたえる、眼鏡である。
「広がりのない知識」は「自身に閉じたオタク的知識」でしかなく、「教養」とは「広がりを持った知識」を言うのである。

そして、この区別は、「教養の必要性」を説く人であっても、十全に理解していない場合が少なくないのではないだろうか。そこにこそ、現代日本の「教養喪失の危機」がある。
あの「子供宰相」を、「ずる賢い」と、むしろ「肯定的に評価」してしまうような、「教養の喪失による、社会的人間性劣化の危機」が、今や現実のものとなっている。これは「過去」の話ではなく、「いまここ」のアクチュアルな問題なのだ。

本書は、「なぜ、こんな日本になってしまったのか」という問いへの、「一つの回答」だったのだと言えよう。

初出:2020年6月9日「Amazonレビュー」

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