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〈記憶力が弱い人〉への福音

書評:池谷裕二『進化しすぎた脳』(ブルーバックス)

本書の元版が刊行されたのは、2004年なので、すでに15年も前の本となる。したがって、本書の知見は「脳科学の最前線」というわけにはいかず、脳科学に興味のある人には(NHKの科学情報番組などによって)既知の事実も少なくないだろう。
しかし、脳科学紹介のパイオニアと呼んでいい著者の、脳科学についての考え方を知ることは、脳そのものを知ることに劣らず興味深いことであり、知的興味をそそるものなのではないだろうか。

言うまでもないが、同じことを説明しても、著者の思想や力量によって、それはまったく異なった様相を見せることが少なくない。その点、本書の著者の態度は、きわめてバランスのとれたものであり、配慮の行き届いたものだと言えよう。
したがって、脳科学を学びたいと思うのなら、本書の著者の著書から入るのが、適切であるという点を、まずは強調しておきたい。

本書の中で、私が最も興味を惹かれた話題は「記憶力」の問題である。
というのも、私の場合「記憶力の無さ」には自信があるからだ。

私の「記憶力」に関する原体験は、小学生の頃の漢字テストだ。要は、学んだ漢字を実際に書けるかどうかの「暗記力テスト」。
当然、生徒たちは、テストの前に、出題範囲の漢字を必死に記憶しようと復習をする。私の場合は、事前になんどもノートに漢字を書いて記憶するという復習らしい復習をした。いっぽう、そういうことは全然しないで、テストの直前に教科書をひらいて必死に暗記している者もいた。努力の量では、とうぜん私のほうがずっと上のはずだが、テスト結果は逆だった。
「努力すれば、とうぜん報われる」と単純に信じていた、当時の私には、これは大変ショックで悔しい経験となり、「私は記憶力が弱い」という自己認識が決定的にでき上がってしまった。
だから、私が、記憶力に勝る相手と伍していくには、思考力しかないと考えた。暗記ものの教科では勝てないが、思考力で勝負する教科なら勝てると考えたのだ。

ところが、典型的な暗記ものの教科である「歴史」ばかりではなく、「国語」や「美術」といった教科以外の大半の教科、たとえば「数学」や「科学」や「英語」や「古典」といった教科も、最初のうちは基本的な方程式や法則や単語や文法というものを憶えないことには、それらを使って考えるところにまでは進めないということがだんだんとわかってきて、(国語や美術といった例外を除いて)私は勉強一般が好きではなくなってしまった。

それでも、本を読むのが好きだった私は、記憶力の弱い人間でも、記憶力の強い人に勝てる方法があるとしたら、それは「暗記する」のではなく、「とにかく本をたくさん読む」という戦略しかないと、自力で気づいた。
私の脳は、表面がとても硬くてすべらかであり、鉛筆やマジックペンはもちろん、鉄筆をもって書き込もうとしても書き込めないのだけれども、しかし、じょうろで水をかけるようにしてやれば、全部ではないにしても、いくらかは染み込んで、身についている、というのに気づいたのである。

つまり、私の脳というのは、非常に効率が悪く、コンピュータのように入力したものがそのまま書き込まれて保存されるようにはできておらず、100の情報を注ぎかければ1か2だけ染み込んで身につくという自己理解にいたった。ならば100の情報が100書き込まれる人と伍していくには、そんな人が本を1冊読む間に、私は100冊読めばいい。読むのは楽しいんだから200冊読んでも平気だし、これなら勝てると考えるようになった。

しかし、同じ本を100回読んだりするのは退屈なので、いろんな本を100冊読むことになるため、私の中に蓄えられる知識は、おのずと雑多なものとなり、100を100のまま憶えられる人の体系的な知識とはぜんぜん違うものとならざるを得ないということにも気づいた。
だがしかし、私の脳というのはいろんな知識が雑多に放り込まれた「闇鍋」であり、だからこそ、そこから意外な連関をもって、思いもよらない物が生み出されるというユニークさがあるぞという、ある種の自信を持てるようにもなった。

じじつ、ここまでの説明で、私は本書『進化しすぎた脳』の内容にまったく触れていないけれども、本書を読んだ人なら、私が経験的につかんだこの勉強法が、意外に、人間の脳の構造にマッチしたものであったということに気づくはずだ。
一一「脳はコンピュータではない」し、コンピュータに劣ってもいない。正確多量に暗記することだけが、手柄ではなかったのである。

第三章「人間はあいまいな記憶しかもてない」には、こんな言葉が並んでいる。

『「あいまい」な記憶が役に立つ!?』(P186)
『基本的に完璧な記憶というのは役に立たない』(P190)
『なかなか覚えられない(※ 人間の)脳』(同)

そして、次のようにまとめられている。

『 動物相手に実験しているとわかるんだけど、下等な動物ほど記憶が正確でね、つまり融通が利かない。しかも一回覚えた記憶はなかなか消えない。「雀百まで踊り忘れず」という言葉もあって、うわぁ、すごい記憶力だな……と、一瞬尊敬に近い気持ちも生まれるかもしれないけど、そういう記憶は基本的に役に立たないと思ってもらったほうがいい。だって、応用が利かないんだから。
 記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント。人間の脳では記憶はほかの動物の例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ。
 そのあいまい性を確保するために、脳は何をしているかというと、ものごとをゆっくり学習するようにしているんだよね。学習の速度がある程度遅いというのが重要なの、特徴を抽出するために。
 一一(※ 質問者)いろんなものを見て、その共通している特徴を……?
 そうそう。そのためには学習のスピードがあまり速いと、特徴を抽出できない。たとえば、きみらが池谷という人間を記憶する過程を考えてみようかな。いま僕は正面を向いて立っているでしょ。その姿だけを見て「これが池谷」というのを写真のように覚えちゃったとするでしょ。そうすると、次に僕が横を向いたら、その姿は別人になっちゃうよね。そこで、「右を向いた姿こそが池谷だ」と、もう一回完璧に覚え直してもらったら、こんどは右向きの姿だけが池谷になっちゃって、正面姿は違う人になっちゃうでしょ。わかるかな。
 ふたつの姿を結びつけるためには、〈記憶の保留〉が必要なんだ。つまり、正面姿の池谷を見ても「これは池谷かもしれないけど、ここは判断を保留しておこう」。そして、右を向いた池谷を見て「ふーん、これも池谷なんだな。ということはさっきの正面姿との共通点は何だろうか」とまたも記憶を保留する。そうやって、ゆっくりゆっくり脳は判断していくんだ。もちろん無意識にね。
 もし、学習のスピードが速いと、表面に見えている浅い情報だけに振り回されてしまって、その奥にひそんでいるものが見えてこなくなっちゃうのね。
 みんな勉強してて、なかなか覚えられないな、と苦労することがあるかもしれないけれども、それはこの脳の作用の裏返しなんだよね。しょうがないんだ。ものごとの裏にひそんでいるルールを確実に抽出して学習するためには、学習スピードが遅いことが必須条件なんだ。そして繰り返し勉強することもまた必要なんだね。
 コンピュータにはなかなかそういうのがむずかしい。』(P192〜194)

例えば、ながらく政治的外交問題となっている「従軍慰安婦」の問題なんかも同じで、最初にある歴史研究書を読んで「かつて日本は、なんて酷いことをしたんだ」と考える人もあれば、その本とは別の歴史研究書を最初に読んだために「従軍慰安婦なんて、中国や韓国の嘘っぱちだ」と考える人もいる。歴史的な事実はひとつなのだが、意見は真っ向から対立して、二分されてしまう。
だから、もうすこし知的な人は「最初の1冊」で決めつけてしまわず(判断を保留して)、双方の本を読んでみて、それを付き合わせて、どちらに妥当性があるかを判断しようとする。
しかし、双方の本をたくさん読んでも、歴史そのものをそのまま再現して判断することはできないので、なかなかどちらと判断できないこともある。その場合は、直接的な歴史書だけで判断するのではなく(いったん判断を保留して)、例えば「従軍慰安婦問題」とは直接関係のない「心理学」や「脳科学」などの本を読み、そこに書かれている知見を応用するという手がある。
例えばそこに「人間は、自分の都合の良いように、事実や記憶をねじ曲げたがる傾向がある」といったことが書かれていれば、「従軍慰安婦」問題については、判定者である日本人に「都合の悪いほうが、真実である蓋然性が高い」と判断できるようにもなる。

このように、最初の「知識」にとびついて、短兵急にそれを「真実」だと決めつけず、ゆっくりと学習し、多面的に物事を判断するようになれるというのが、人間の「脳」の優れた点でなのだ。
だから「(少しのエピデンスだけに拠るため)やたらに判断が早く、決めつけがひどい」人というのは、脳が働いていない証拠だとも言えるのである。

『 もう一歩突き詰めて考えると、記憶があいまいだから、いままで思いもよらなかった別々の記憶がポンとつながったりもするわけだ。これは「ソウゾウ」そのものなんじゃないのかな。「ソウゾウ」というのは両方の意味ね、イマジネーション(想像)もそうだけれども、新しいものをクリエイト(創造)するのも、いま自分が蓄えている記憶が、あるときふとつながったり、何かのきっかけで結びついたりしてできるんだよね。それは新しい記憶だよね。こういうのも「あいまいさ」があるからこそできることじゃないかな。
 コンピュータの記憶はいつも正確に、ビシッビシッと整理された棚に置かれるみたいにハードディスクに蓄えられていくでしょ。ああいうのって記憶が相互作用しないから、いつでも完璧に取り出せはするんだけれども、コンピュータにソウゾウ性が欠如しているのは、あいまいな記憶がないからだとも言える。つまり記憶が正確すぎるということ。』(P198)

じっさい、記憶力が抜群に良くて、受験戦争に勝ち抜いたエリートたち(例えば、政治家や官僚)の考えって、意外に「凡庸」だったり「薄っぺら」だったりすることが少なくないが、それは記憶のスピードや正確性においては優れていても、それゆえに「ソウゾウ」性を欠いている脳の持ち主が少なくないからであろう、というのがわかる。

だから、記憶力が弱いというのは、必ずしも悪いことではないのだ。記憶力の弱いことに絶望せず、自分なりに勉強を重ねていけば、自分の中に「材料豊富な闇鍋」が構築されてゆき、ある時、そこから自分でも思いもよらないような、クリエイティブなアイデアが生まれてくるものなのである。

その実例として「従軍慰安婦問題と脳科学」などという、例を見ない「連想」を示してみた次第である。

初出:2019年7月24日「Amazonレビュー」