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父が教えてくれるもの、家族の会話

昨日、今年89歳になる父が

救急に搬送された。

アメリカに移住して以来

これで3回目である。

ER(救急救命室)に搬送される度

これが最後なのか

という思いが脳裏をよぎる。

私は病院が嫌いである。

いや、病院が嫌いになった。

以前は歯科医師という仕事柄

病院に行くことは

全く気にならなかった。

しかし、自分自身が

乳がんを経験し

父が入院し

それに付き添う度

病院に行くのが

嫌になってきた。

出来れば行きたくない場所である。

このコロナ禍では

病院の付添は原則禁止である。

しかしながら

高齢であるということ

英語がうまく話せないこと

という理由で私は

付き添いが許されている。

でも、ただ一人のみ。

ここで、私は延々と

冷たい殺伐としたERの一室で

何時間も下手をすれば一日中

彼に付き添うことになる。

当の本人は

意識が朦朧としているから

さほど気にならないのであろうが

私はバタバタと

救命士やドクター、ナースたちが

出たり入ったりする

慌ただしさの中

隣の処置室や

廊下のタンカの上で

痛みに耐えながら

待っている患者さんたちの声を

聞く羽目になる。

これは結構きつい。

やはりこちらも

気分が落ちてしまう。

そして、生死の狭間に

いるかもしれない父に

たった一人で付き添うのは

実にプレッシャーである。

家族一同の想いを受け止め

もしかしたら、

いざという時に

私が決断しなければならない

その重圧に押しつぶされそうに

なることもある。

日頃から父は

「もう十分生きたから、自然に

お前たちに迷惑かけないようにしてくれればいい。」と

事あるごとに言っている。

そうは言っても

いざとなると躊躇するんだよ。

お父さん。

だから、今回もERに入った時

「ああ、大変。また、長い一日になりそうだ....」

と何とも言えない気分になった。

しかし、今回は時間が経つにつれ

少し違うことを感じた私である。

何時間か横に座って

父の状態が回復し

ナースが質問したことをきっかけに

父が若い時の話をし始めた。

大学時代のこと

親元を離れて生活した時のこと

自分のしていた研究のこと。

以前、聞いたことのある話もあったけれど

今回初めてのことも色々と話してくれた。

そこで、ふと思った。

私は父とずっと一緒に

仕事もしてきて

いつも身近にいたけれど

どこまで彼のことを知っていたのか。

彼が何を考え、何を感じていたのか

本当に知っていたのだろうか。

昭和の父親は往々にして

頑固であり、口下手

親子の会話は少ないというのが

一般的ではないだろうか。

私は父とはコミュニケーションは

していた方だと思っていたが

今考えてみれば

ただ単なる業務連絡的な会話ではなかったのか。

ああ、もっと話をするべきだったね私達。

きっと彼なりに伝えたいことが

たくさんあったと思うけれど

若い時の私は

うるさがってちゃんと

聞いていなかったんだろうね。

そして、改めて

こうやって時間をかけて

ゆっくりと私達に

生きること

死ぬということに

どう向き合うのかを考えさせ

心の準備をさせてくれているのではないか

と感じたのである。

相変わらずの面倒見のいい親父だよ。

確かに寝たきりが続き

チューブにつながれた状態は

本人も家族も辛い。

「"ピンピンコロリ”で死にたい」と

言う人が多いだろう。

確かにごもっとも、理想的である。

でも、ある意味それだと

周囲はかなりショックだし

ああしてやればよかった

こうしてやればよかったと

後悔もあるのではないのだろうか。

伝えていなかった気持ち。

何れ、もう少ししたら

こうしてあげようということ。

聞きたくて、ずっと聞いてないことを

父に聞いてみた。

「お父さん、アメリカに来て本当に幸せかな?」

すると父が言った。

「家族と一緒が一番だよ。」

「でも、せっかくアメリカに来たのに

あまりあちこち旅行も行ってないよね?」

「毎日みんなで食事をして

テレビを見て、寝る。

普通でいい。シンプルでいいんだよ。」

「そうかな~、もっといろいろやれば?」

「複雑にしなくていいんだ。シンプルでいい。」

彼が言うように、私達の生き方は

もっとシンプルでいいのかもしれない。

複雑だと思って悩んでいても

そうしているのは

本当は自分自身かもしれない。

「Simple is best. 」

何事にも通じることでなないだろうか。

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