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陸上競技と私

このテーマを目にして「今が書くときだ」とルーズリーフに何日も向かった私だったが、書いても書いても、何度書き直してもまとめたいことがまとまっていない感覚、本当にそれが伝えたいことなのかわからない感覚としばらく戦った。「書けない」「公開のボタンも押せない」「諦めようか」と思ったが、母が、ご飯を食べていなかった私に「ちゃんと食べてやりい」とご飯を作ってくれたことでまた前向きになれた。

私は陸上競技をしていた。私にとってのスポーツがくれたものは「今の私」であって、良いときも悪いときもあった沢山の経験であり、「私もああなりたい」という憧れであって、沢山の出会いや陸上がなければ見ることができなかったであろう景色、それによって得た沢山の学びでもあって、書き尽くすことはできないが。

“スポーツがくれたもの”この意味を考えてみた。



私には小学生の頃から、父と母の影響で陸上競技が身近にあった。

最初は日本選手権で入賞したという母のきれいな走りに憧れ、次第にオリンピック選手に憧れた。私の記憶に焼きついているのは、オリンピックの舞台。駆け引きをせずに、自分自身のベストを尽くすことに徹するように、集団から一人飛び抜けて先頭をひた走る女性ランナーの姿だ。「かっこいい」と思った。



河川敷にある、芝生に囲われたとても見晴らしのよい競技場。コーチのあいさつから練習がスタートする。

トラックを走って軽く汗ばんだら、芝生で体操。『動きづくり』と呼ばれる腿を上げたり、ジャンプをしたり、大股で歩く運動。

その後余力を残した上で150mを気持ちよく走る。メインの練習はその後だ。

クールダウンという使った身体をリラックスさせていくための運動をするが、あの時間が清々しい気分になって好きだった。

陸上を始めた11歳、校内のマラソン大会で初めて1番になれたことが嬉しかった。「自分にも得意なことができた」「打ち込めることができた」そんな風に嬉しかったり、誇らしいような気持ちになったのを覚えている。

陸上の基本を学んだ小学生時代。



野球部のバックネットの裏を通り、キャッチャーが練習している区画のフェンスを避けて。

ほぼ直角に曲がるコーナー。

サッカーゴールの裏を抜け、砂場に足を取られないよう注意をはらう。

430m程の土の外周トラック。中長距離の部員はストップウォッチを握りしめて走るというのが私の学校の特徴で。

私の好きな種目は800m。

皆で練習する日も、一人で練習する日もあった。試合の反省用紙には先生がいつも励ます言葉をくれた。母はご飯をつくり、一緒に練習を考えてくれたし、悩んだときにはアドバイスをくれた。

夏の全国大会、先生はチームメイトが作ってくれた横断幕を両手で掲げて応援してくれた。いつまでも熱いまま私の胸に残っている。

中学生時代の記憶。



大きな池と桜の木を右手に、坂をのぼった丘の上にある校舎。その中庭の通路を抜け見えてくるグラウンド。333mのトラック。

定期的に『塩カル』と呼ばれるものをまき、トンボでひたすらならす。

そうすることでグラウンドが凍ったり、霜が降りたり、砂埃が舞うのを防いでくれる。保水力も上がるそうだ。

代々整備か受け継がれているトラックはしっとりしていて、何より靴底が土をよく噛む。

声をあげてタイムを読んでくれるマネージャーの存在。競ったり、高め合ったり、笑い合ったりするチームメイトの存在。モチベーションがフワッと上がるようで感動したことを覚えている。

インターハイで戦うことが入学当時からの私の目標であり、青春でもあった。1500m、県の高校記録まであと1秒という淡い結果で幕を閉じた高校生時代。

高校の恩師は私の夢に向けて背中を押してくれた。



社名の入ったユニフォームを初めて着たときの背筋がしゃんとするような感覚は忘れられない。

朝、昼、夜、陸上競技のための生活。

街中のトラック。海風の当たるトラック。様々な大学のトラック。広大な自然に囲われたアメリカのトラック。赤土の中にポツンとあるエチオピアのトラック。サブトラック。ナイターの光が眩しい夜のトラック。スタジアムのトラック。激しい音、アナウンスの流れるトラック。

トラックによって変わる接地の感覚。気分の高揚。身体の興奮。疲労感。

昔描いた憧れを手繰り寄せる毎日。

刺激的な生活に感動した。

全日本実業団入賞。3000m、5000mの自己ベスト更新。都道府県対抗女子駅伝、初めての9区アンカー区間のふるさと出場(ふるさとというのは社会人選手が出身のチームで参加するということ)。U-21陸連選抜、エチオピアへの派遣で“ワールドクラスのランナー”の育った環境を学ぶ時間をもらった。

嬉しい、もっと強い選手になりたい気持ち。チャンスを与えてもらえることへの喜び、そして感謝の気持ち。それをきちんと受け止められる私への充実感。

しかしそれに反発するように私の心では矛盾が起こっていた。

練習に対して感じる怖さ。悩みを吐き出せずに生まれた孤独感。視界が真っ暗になる身体の異変。長距離選手がかかりやすいと言われる“食べること”の病気。私はならないと思っていたが、そうだと気づいたときには正直ゾッとした。

あれは、日本選手権で戦いたいと願い、そして目標になった年。

競技者として、2年後のリオデジャネイロオリンピックを意識していた年。

私は陸上競技から離れ、あれよあれよという間に目標を見失いかけていた。



その後は療養をしながら、しんどい状況から抜け出そうと「体や心を整える方法」について勉強をすることが習慣になっていった。医療機関も訪ねながら、新しい仕事を探そうとしていた。アルバイト、資格勉強にも挑戦しながら選手時代にほとんどできなかったイベント事へも参加したり、景色を見ながら散歩することも増えた。少しずつ自分について考えた。

昔からずっと、陸上は私の居場所だった。

昔一人の友達が言ってくれた言葉が今も心に残っている。「走ってなくてもねねはねね」その言葉を、私は陸上から離れた当時は素直に受け取ることができなかった。今になり受け取れる。「自分を救えるのは自分自身」という言葉があるように、自分の世界を変えることができるのは本当の意味で自分自身なのだと思う。

“スポーツがくれたもの”

それは、健康への意識。競技をする中で周りの人たちから教わったことやコンディショニングの方法という意味もあるが、私は体を動かすことで生まれる「自分はここにいるという感覚」こそ大事にしたいと思っている。普段は感じにくい自分自身に意識が向くことでそれ自体が心や体に向き合える時間になったり、私にとって走る時間というのは自分の成長や退化、ちょっとした変化にも気付くことができるきっかけになったり。自分に向き合えるようになっていくと自分の好きなものや嬉しいと思うことにも敏感になっていった。

それに、スポーツをすることにおいて大事な食。そこから学んだことも多い。口にするものが体を作っている。食材選びが大事なこともスポーツから派生して学んだことのひとつだ。


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