自分をしあわせにしていこう

こんんばんは。21時前にお風呂とご飯をやっつけて、至福のぬくぬくたいむを過ごしている私です。

否定的な言葉の意味のなさについて語りたい。私はそんなに強くない。人間として、そんなにタフなほうではない。刺激や変化にとても弱いし、人に否定されるのがとても怖くて、真正面から向き合うことが得意なほうではない。そっと我慢すればいいやで流してきたことが、多くあるなぁ、って思う。自分の感情を勝手に内的処理するのが得意になってしまって、ますます人との繋がりを持つきっかけを失っているなあって思う。
話を戻すが、人って誰でも一生懸命だと思う。生きるのに精いっぱい一生懸命じゃない人なんていないよ。自分の信念をもって精いっぱい生きている人それぞれのその人なりの頑張りを、「想像」できる人で、社会で世界で在ってほしい。それは、自分を含めてだけれども。
だから、だからこそ思うんだ。否定的な意見は慎重にならなくてはならないよね、って話。人は結局のところ、表面に見えるその人の上澄みしか見えないんだ。自分とは、違う人なんだから。

ていう話も、意見や信じていることの違いから、安易に否定させてさぁあああ!!私は、人に影響を与えるのは「経験」だと思っていて。確かに、「机に向かって学んで「知識」として知っていることは素晴らしいと思う。けどね、人って所詮、頭のいいだけの動物だと思っていて、だから、体で感じたことってダイレクトに様々な学びを得られると思っていて。たくさんの経験から学びたいって話してたら、大学生の本業の学びおろそかにしてない?みたいな言葉が飛んできてさ。まぁ、バランスなんだけどね。結論はそこなんだけど、ちょっと、自分がすっごいがんばっていること否定されてように感じてさ。悔しいようななんていうか、うぎゃやみたいな?考え方の違いだから、適当に受け流したんだけど、その言えなかった思いを今ここに言葉にしてぶつけているって感じです。
私の家族、みんなコミュニケーションが苦手でさ。話し合い、じゃなくて、否定しあいとかになっていっちゃうんだよね。たぶん安心感?温かみ?みたいなのの欠如が原因だと思うけど。みんな頼るの苦手だから、ていうかわからないんだろうね、思いやりがそこにあるはずなのに、ある一定の距離感に踏み入れてしまうと、どうしても言い合いとか、安易な否定のし合いになってしまう。私がどうしてここまで分析しているのかって、それはその言い合いを幾度となく見てきたから。私は、冒頭に話したように、どんなにいじめられても、立ち向かうのが怖くて、おびえてしまって、だから今までずっと、何にもないように流して対処してきた。ま、ちゃんと傷ついてるし、悲しんでるし、痛がってるし泣いてるんだけど、それを隠すのが上手になって追ってしまっただけ。悲しい癖なんだ。これのせいで、人とのかかわり方がうまくできない。ラフにかかわるってのがなんかできなくて、人に対しての無条件の信頼や安心感みたいなのが多分人より低い。どっか怖くておびえているところがあって、ふら~っと関われなくて、結果、自分のことを助けてくれる関係性を紡いでいくのがとても難しい。人生にとっての課題だな~って感じて一生懸命行動している。冒頭の「経験」はここにつながる。そのせいで大学まで手が回らない。人生のバランスとりはいつも難しい。
あきらめ、というか仕方ないことにさえぎられて無理なことと最近よくであったから、なんか自分でも頑張ってる感があるのに安易な否定が余計にとても悔しくて。
この世界が「あたたかみある想像力」で溢れますように。もう精いっぱい実は頑張っていて、だから、優しい世界じゃないと生きられない人もいるんだよ。私がわかってやれていることがすんばらしいね。偉い!本当にお疲れ様。まだ、成長不足なあいつにかき乱されてたまるか!
人って、ぶつかった分だけ優しくなれるんだと思う。体で「知っている」から。それってとても強いことだと思うしものすごい価値だと思うんだ。するする生きて何も知らない人にならなくてよかったなぁ!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?