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英国・アトリー首相の対日戦勝演説の紹介と雑感

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【前置き】

今回は英国・アトリー首相の対日戦勝演説を取り上げようと思います。

さて、もうこの段階である種の違和感が生じたりもします。そう、この時点で英国の首相はチャーチルじゃないんですね。彼は既に選挙で負けて退陣しているのです。

細かい時系列を言うなら

1945年5月8日 対独戦勝記念日
1945年7月5日 英総選挙(集計には日を要した模様)
1945年7月17日 ポツダム会談初日
1945年7月26日 ポツダム宣言の発表
1945年7月26日 同日にアトリー、首相に就任
1945年8月2日 ポツダム会談最終日
1945年8月15日 本スピーチ(実際には14日深夜のラジオ放送とのこと。後述)。

……となっています。

上記のようにポツダム会談は1945年7月17日から8月2日までだったので、英国代表は途中でチャーチル→アトリーとバトンタッチしています。
チャーチルが退陣するタイミングでポツダム宣言が出ているのが興味深いところです。


ところで、英国を戦勝に導いたはずのチャーチルがなぜ選挙で負けたのか? シロウトが適当なことを言うと詳しい方がお怒りになるかもしれませんが。
ドイツを降してもう戦争には勝ったも同然。なので戦後のためには穏健な人を選びましょう、みたいな感じだったのでしょうか……?

ただ、ここで忘れてはならない視点だと私が常々思っていることがあるのですが。
選挙のあとすぐの1945年8月14日に日本が降伏を最終決定する(国内向けには15日にラジオ発表)というのは、この当時の人にはもちろん分かっていなかったことで。

当時の日本の──欧米の人々には間違いなく狂信的と思えたであろう──徹底抗戦の構えを見れば。大勢は決したとはいえ、最終決着までにはまだまだ──何ヶ月も、ことによれば何年も──掛かると見る人は決して少なくなかったはずです。
(史実でも、いわゆる「日本のいちばん長い日」のクーデター未遂などが起こりましたし。)
Wikipediaの「ダウンフォール作戦」の項などを見ると、その辺りの雰囲気がなんとなく感じられる気もします。

チャーチル退陣を知った当時の日本の当局者が何を思ったかも気になるといえば気になります。

閑話休題。


【スピーチの原文、動画など】


さて、氏はビッグネームのチャーチルに比べると、どうにも影が薄い……と言っては、これも怒られてしまうかもしれませんが。
そんなアトリー首相の対日戦勝スピーチもまた(英国は日本の主要な交戦国であったはずなのに)影が薄い気がします。

これは日本に限らず英国でもそうなのか、探してもなかなか原文や録音が見つかりませんでした。
……そして日本語訳も(^_^;)。
(もちろん、しかるべき本には収録されているのでしょうが)。

英語原文についてどうにか見つけたのが「ガーディアン」紙のサイトにあった以下のもの。これはどうやら当時の記事の復刻という体裁をとっているようです。

もっと公的なサイトに置いてないものかと思いましたが、今のところ見つけられていません。

本スピーチの動画探しもちょっと面倒でした。

例えば次の動画ではアトリー首相が演説する姿がちゃんと映し出されています(スピーチの部分に時間指定してみました)。

ただしこれはダイジェストで、話の順序すら編集でいじられていたりします。

とは言え、こういう動画があるからにはスピーチ全体を撮影したフィルムもきっとある(あった)はずと思うのですが。
次のページの記述などを見ると、ひょっとして現存していないのかもしれません(?)。


ただ、音声のみ収録の動画は見つかりました。

これがまた、なんというか興味深い動画で。全体は戦勝を報じるアメリカのラジオ番組なのですが、その中でアトリー首相のスピーチが全文流れるのです。
興味のある方は全体を通して聴いてみるのも良いかと思います。

(これもスピーチの部分に時間指定してみました)

なお、「ガーディアン」のサイトにある文章とは若干言葉が異なっている箇所も散見されますが、本稿では基本、気にしないものとします(文章優先で)。

【原文(英語)と機械翻訳(+α)】


以下にはいつもの流儀で、原文と機械翻訳(に若干の手を加えたもの)を対訳的に載せておきます。

先に書いておきますが、この演説に正式なタイトルなどがあるのか無いのかもよく分かりませんでした。

そして、これも恒例の断り書きです。

・私は歴史の専門家でもなんでもなく、以下はあくまでもシロウトの好事家のテキトー訳です。
当然ながら正確さは《一切!》保証できません。
ご利用は完全に自己責任でお願いします。


原文を掲載する「ガーディアン」紙のサイト(再掲)


Japan has to-day surrendered. The last of our enemies is laid low. Here is the text of the Japanese reply to the Allied demands:-

日本は今日、降伏した。最後に残った我々の敵が打ち倒された。以下が、連合国の要求に対する日本の回答の文章です。

With reference to the announcement of August 10 regarding the acceptance of the provisions of the Potsdam Declaration and the reply of the Governments of the United States, Great Britain, the Soviet Union, and China, sent by Secretary of State Byrnes on the date of August 11, the Japanese Government has the honour to communicate to the Governments of the four Powers as follows:-

日本政府は、ポツダム宣言の諸条項の受諾に関する8月10日の発表およびバーンズ国務長官が8月11日付で送付した米国、英国、ソ連、中国の各政府の回答に関し、4カ国政府に以下のとおり伝達することを光栄に思う。


1. His Majesty the Emperor has issued an Imperial rescript regarding Japan's acceptance of the provisions of the Potsdam Declaration.

1. 天皇陛下は、日本がポツダム宣言の諸条項を受諾することについて、詔書を発布された。


2. His Majesty the Emperor is prepared to authorise and ensure the signature by his government and the Imperial General Headquarters of the necessary terms for carrying out the provisions of the Potsdam Declaration.

2. 天皇陛下は、ポツダム宣言の諸条項を実行するために必要な条件について政府と大本営が行う署名を承認し、保証する用意がある。


3. His Majesty is also prepared to issue his command to all military, naval, and air authorities of Japan and all the forces under their control, wherever located, to cease active operations, to surrender arms, and to issue such other orders as may be required by the Supreme Commander of the Allied forces for the execution of the above-mentioned terms.

3. 陛下はまた、日本のすべての陸、海、空の軍当局およびその管理下にあるすべての軍に対して、どこにいようとも、積極的な行動を停止し、武装を放棄するよう命令を出し、また上記の条件を実施するために連合軍最高司令官が要求するその他の命令を出す用意があります。


(Signed) Tojo.

(署名)東条
(※音声ではトーゴーと言っているように聞こえます……。)

Let us recall that on December 7, 1941, Japan, whose onslaught China had resisted for over four years, fell upon the U.S.A., who were then not at war, and upon ourselves, who were sore pressed in our death struggle with Germany and Italy. Taking full advantage of surprise and treachery, the Japanese forces quickly overran the territories of ourselves and our Allies in the Far East, and at one time it appeared as though they might reach the mainland of Australia and advance far into India. But the tide turned.

思い起こせば、1941年12月7日、日本の猛攻に中国は4年以上も抵抗していたが、その日本が、当時戦争をしていなかった米国と、ドイツやイタリアとの死闘で苦境に立たされていた私たち自身に襲いかかったのです。奇襲と裏切りを駆使した日本軍は、極東における我々や同盟国の領土を瞬く間に蹂躙し、さらに一時はオーストラリア本土に達したりインドにまで進出したりするかもしれないと思われた。しかし、流れは変わった。


First slowly and then with an ever-increasing speed and violence as the mighty forces of the United States and the British Commonwealth and Empire our Allies, and finally Russia, were brought to bear. Their resistance has now everywhere been broken. At this time we should pay tribute to the men from this country, from the Dominions, from India and the colonies, to our fleets, armies, and air forces that have fought so well in the arduous campaign against Japan.

米国と英帝国・コモンウェルスの同盟国、そして最後にはロシア、の強力な諸軍の力が加わる中、最初はゆっくりと、やがて増え続けるスピードと威力とともに。彼らの抵抗は今やいたるところで破られました。ここに当たって私たちは、日本との厳しい戦役の中で健闘した、わが国、ドミニオン(*)、インドと植民地の海・陸・空の兵士たちに敬意を表さなければなりません。


Our gratitude goes out to all our splendid allies above all to the United States, without whose prodigious efforts this war in the East would still have many years to run. We also think especially at this time of the prisoners in Japanese hands, of our friends in the Dominions, Australia and New Zealand, in India and Burma, and in those colonial territories upon whom the brunt of the Japanese attack fell. We rejoice that their sufferings will soon be at an end and that these territories will soon be purged of the Japanese invader.

私たちの感謝の気持ちは、すべての素晴らしい同盟国に向けられ、とりわけアメリカには感謝しています。アメリカの並外れた努力がなければ、東洋におけるこの戦争はまだ何年も続いたことでしょう。また、この時期に特に思うのは日本の手中にある捕虜のことと、日本の攻撃の矛先が向かったドミニオン、オーストラリアやニュージーランド、インドやビルマ、そして諸植民地にいる我らの友人たちのことです。彼らの苦しみがまもなく終わり、これらの地域から日本の侵略者がまもなく排除されることを喜びます。

Here at home you have a short, earned rest from the unceasing exertions you have all borne without flinching or complaint through so many dark years. I have no doubt that throughout industry generally the Government lead in the matter of victory holidays will be followed, and that to-morrow (Wednesday) and Thursday will everywhere be treated as days of holidays.

ここ英国では、実に長く暗い時代の間、ひるむことも文句を言うこともなく皆さん全てが耐えてきた絶え間ない努力から離れ、短いですがしかるべき休息をとることができます。私は、産業界全般にわたって、勝利の祝日に関する政府の指導が遵守され、明日(水曜日)と木曜日があらゆる場所において祝日として扱われることを確信しています。(**)


There are some who must necessarily remain at work on these days to maintain essential services, and I am sure they can be relied upon to carry on.

基礎的なサービスを維持するために、どうしてもこの日に仕事につかねばならない人がいますが、彼らが仕事継続してくれるのを頼りにできるものと信じています。


When we return to work on Friday morning we must turn again with energy to the great tasks which challenge us. But for the moment let all who can relax and enjoy themselves in the knowledge of work well done.

金曜日の朝、私たちは職場に戻り、再びエネルギーを持って私たちに課せられた大きな課題に取り組まなければなりません。しかし今のところは、可能な人はみんな、仕事がうまくいったことを実感してリラックスし楽しんでください。


Peace has once again come to the world. Let us thank God for this great deliverance and his mercies. Long live the King!

世界に再び平和が訪れました。この偉大な解放と神の慈しみに感謝しましょう。国王万歳!

(*)ドミニオン : 英連邦自治領。この時代にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、ニューファンドランド、アイルランド自由国のことを指す……のだと思います。

(**)明日(水曜日) : 1945年8月15日(水)のこと。
この演説のラジオ放送が行われたのは8月14日の深夜で、それについてはガーディアン紙の記事の冒頭にも触れられています。
また、このnote記事に貼った一番目の動画にも「首相の発表は深夜だったので聴いた人はさほど多くなく、朝、ラジオや新聞に教えられる前に仕事に出かけた人すらいた」などという解説コメントが入っています。


※トップ画像はWikimedia Commons にあったポツダム会談の写真。左からアトリー(英)、トルーマン(米)、スターリン(ソ連)