あの頃のわたしを連れて、この道を歩いてく。
誰かから素敵なお誘いや連絡をもらうことでしか、自分に価値を感じられない自分が嫌だった。
好きになった人に選ばれなかった程度のことで、消えてしまいたくなる弱い自分が嫌だった。
人に受け入れられるために自分を棄ててしまおうとする自分が嫌だった。
自分の幸福の責任を他人に丸投げすることでしか生きられない自分が大嫌いだった。
わたしはいつだって、大切にするものと棄てるものの選別を間違っていたんだ。
棄て去ってしまえばいいものほど大事に握りしめて、ほんとうに大切なものほど棄ててしまおうとする。
放棄してはいけないものばかりを放棄して、そんなに大事じゃないものばかり絶対に手放すまいとする。
だからいつも苦しかった。だから日常が苦痛で溢れてた。
だからいつも「私の人生なんてこんなもん」って思ってた。
大切じゃないものばかりで両手が塞がってたから、本当に欲しいものに手を伸ばすことを無意識で諦めてた。
手放すことって、「これはいらないな」って認識することから始まると思うの。
自分を不快にさせるものとか、自分を縛り付ける観念とかルールとか、そういうものってなかなか「いらない」って気付けない。
どういうワケか、そういうものほど重要なものだと思い込んでしまう。
手放すどころかすごい勢いで凝視し続けちゃう。
すぐに棄てられるものとそうではないものってあると思うんだけど、まずは認識することで変容が始まるのだと思うんだ。
自分が要らないものを握りしめていることを知ってしまったら、そのことをもう無視できない自分にいやでもなっていってしまうから。
他人に賞賛されることや嫌われないことに依存するあまり、自分を放棄する生きかたはやっぱり悲しい。
他人の評価を追っても追っても愛に枯渇するのはきっと、自分自身が愛の発生源なのだということを忘れてしまっているから。
他人や状況が自分のために変わることや、自分を喜ばせてくれる何かが与えられることを愛だと思ってしまったら、どれだけ求めても永遠に満たされることはないのだよね。
そんなことを言ってるわたしだって、俯瞰視点の自分に「そんなもんさっさと捨てちゃえよ」って言われそうなものを頑として手放せずに悶てしまう時がある。
でもその不完全さっていうのは嘆くべきことではなくて、もっともっと自由になれる可能性でしかないわけで。
大自然のリズムの流れる人間のボディで生きている限り、どの瞬間にも完璧に満足するということは、きっとないのだろう。
完璧はたぶんあの世の世界観だから。
それでも、生きながらも愛(自分自身)に留まり続けようとする不動の心を大切に、死後の世界観をちょっとばかり拝借しながら生きていたいとおもいます。
((ちなみにホリエモンの『多動力』という本がありますが、あれは不動心の極みだと思ってる。「わくわくすることにしか時間を使わない」という精神の不動力が行動の多動力にそのまま反映されているのだろうな。わたしを含め多くの現代人はこれが逆になっている))
誰かから素敵なお誘いや連絡をもらうことでしか自分の価値が測れなかったあの頃の自分を。
好きになった人に選ばれない程度のことで、消えてしまいたくなっていたあの頃の自分を。
人に受け入れられるために自分を棄ててしまおうとしていたあの頃の自分を。
自分の幸福の責任を他人に丸投げすることでしか生きられなかったあの頃の自分を。
あの頃の自分を、わたしはもう嫌っていない。
あの頃の自分のかけらたちを消し去ることをシアワセと呼ぶのなら、そんなもん、わたしは要らない。
頼まれたって受け取らねえよ。
全ての瞬間のわたしを連れて、わたしは今を生きるのだ。
過去のどんなときの自分にも許されたとき、今回のわたしの旅は終わりを迎えるのかもしれないね。
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