あなたはあなたを、誰にも殺させなくていい。
「なーんにもなくってよかったのにねええ」
いつも一緒にいるぬいぐるみ(あざらし)さんを抱きながら、ふいにこんなことを呟いている自分がいました。
何もなくていいっていうのは、文字通り 家もスマホも何一つ持っていなくてもいいという意味ではなくて、今まで重要だと思い込んで身を粉にして追い求めていたものにたいしての言葉です。
これまでかなりの時間・労力を、人に評価されるため、もしくは評価までいかなくともせめて陰口言われないためとか同情されたりしないための何かを手に入れることに費やしてきたんだな…
ということを改めて自覚して、やっとそこから少し解放されたのだなと思えて深い安堵を覚えたのです。
自分の本質的な欲求にふたをして、「他人の思い」という幻想を満たすために生きる。
今だから、そんなことしなくたって生きられるよ生きてやるよって言えるけど、その頃はそれが全てで必死に頑張って生きていたわけだから、その頃の自分には心からの敬意とねぎらいの言葉をかけてあげたい。
個人が当たり前に自己開示をする時代になり、これまで隠れていた いわゆるマイノリティの人たちの存在だとか、人の思想や価値観の多様性が表面化する流れが激流のように加速して、
これまで絶対的に信じられてきたようなものがかならずしもパーフェクトな正解ではないのだとする考えかたが市民権を得るようになってきました。
今年は特に、ずっと正解だと思われてきたものが一瞬にして不正解になるということも色んな場所で起こりましたね。
言葉が悪いかもしれないのですが、見えないマイノリティである自分にとってこれまでの時代が突きつけてくる正解はとても窮屈なものが多く、ある意味では人質をとられながら生きているような心地がしていたものです。
自分が社会からたくさんの恩恵を受けていることはわかってる。
でも本当にこんなに多くのものを差し出さなければいけないのだろうか、どうしてこんなに命をすり減らさなければ生きることが許されないのだろうかと、いつもどこか悲しかった。
そんな不自由さというか圧迫感から やっと楽になれたのだな、などと思うと感慨深く、枕を濡らさずにはいられないのですよね。
欲しくないものや持ちたいと思えないものを手に入れるために死ぬほど頑張り続けなきゃいけなくて、そこには終わりがなくて満たされなくて。
本当に欲しいものや自分が人様にお裾分けできるくらいたくさん持っているものはゴミのように扱われる。
ゴールなんて誰もがとっくの昔っから辿り着いているというのに、誰もそれをゴールだと認めることができない。
そんなこわくて息苦しい場所に、もう留まらなくていい。
あなたはあなたを、わたしはわたしを、もう誰にも殺させなくていい。
これは個人レベルの話ではなくて、きっとそんな時代がすでに幕を開けている。もう戻ることはできない。
わたしはどんどん吸い込まれていく。
切ないくらいにこの魂が求めていた、やわらかくてやさしくて、あたたかで色彩豊かな 懐かしい新世界に。
おしまい。
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