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宇宙論(18)

 読者の方からオーダーをもらったので、たまに深く潜った時、全人類が滅亡してこの世界が終わってしまった方がいいのではないだろうかとも思うことについて。

 人生は苦しい。その果てに何がある? 答えは個々人が見つけていくしかない。

 すべての人が幸せであればいい。それでもそういうわけにはいかない。誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いている。こんな悲しいことがあるかと思う。

 人類は壮大なカルマを背負っている。業。そんな中、産み落とされてしまった僕らはすべからく不幸だとお釈迦さまは言った。それがお釈迦さまの主観であれ、真理であれ、傾聴に値する言葉だと思う。

 一切の苦しみがなくなってしまえばいい。そんなことも思う。苦しみの果てに喜びがある? そんな遠回り、誰が設計したのだ? 人類の設計とはなにか?

 わたしたちは何を知るために生まれてきた? 何を感じるために?

 僕は何度も死のうと思ってきたし、実際、死ぬことを試みたし、その時には世界や宇宙のあらゆるすべてを呪っていた。その呪いは深いものだったと思う。呪術廻戦なんて目じゃない(呪術廻戦は好きだけれど)。

 人類はこの世界を破壊してきた。この惑星を。生命を。魂を。その代償は支払われなければならないのではないか。そんなことを考え、絶望と闘う夜もある。失望に苦しむ夜もある。どうにもならない空虚。虚無。その一切を呪う。

 自分の犯してきた罪。それは償わなければならないと思ってきた。けれど償うことは難しい。反省し、祈ることしかできない。ナザレのイエスが言った「貴方の罪は赦された」という言葉が本当であればいいと願う日々もある。本当なのだろうか? わたしたちの罪は赦されたのか?

 全人類が滅亡すれば、もうこの悲しみの連鎖も断ち切られる。その方がいっそこの世界は豊かになるのではないか。そんなことを思う日々もある。

 この世界の主役は人間だけではない。そのことを忘れてはいけない。

 けれど僕は生まれてきた。だから生きる。他の生命と自由を奪って生きる。今となっては自分で死ぬのは嫌である。天命を全うしたい。それがどれほどに傲慢で自分勝手な思いであったとしても。

 誰かのために、何かのために生きたい。そうすることで、自分の中の人類滅亡願望に終止符を打ちたい。しかし、それが叶うかはわからない。それは僕の日常の仕種のひとつひとつにかかっているのだ。

 全人類が滅亡した方がいいのではないかとたまに考える。この世界が終わってしまった方がいいのではないかとも考える。でも永遠に生きていて欲しいとも思う。永遠に在り続けて欲しいとも思う。世界は生まれてきたのだから。宇宙は喜ぶ心を知っているのだから。

(2024.4.26)

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