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宇宙論(21)

 昨日、インスタライブで、約20年来の友人から、僕は中学生の頃から差別をしない人間だったと言われた。果たしてそうだろうか? よくわからない。

 差別というのは深く激しい問題である。僕自身、なるべくなら差別なんて悲しいものを自分の本性の中から消し去ってしまいたいと思ってはいるけれど、無意識の差別というものもあるだろう。苦手というものもある。いろいろと複雑だ。

 その友人は、僕のことを、中学生の頃から常人とは考え方が違っていたとも言っていた。果たしてそうだろうか? よくわからない。自分以外の他者の頭の中を覗き見ることはできない。僕は僕なりに生きていくことしかできないのだ。

 何はともあれ、その友人はとても元気だ。優しく、溌剌として、いじけたところがない。そういう人には素直に憧れを抱く。たくさんの人の心を救っているだろうと思う。

 そして美しい女性である。これは神さまからの贈り物だろう。ギフト。

 というような話をしていたら、「美人ってなに?」という話にもなった。ルッキズム。これも複雑な問題ではある。

 女性に限らず、男だって容姿に多くのことが左右される。心は見えないのだ。

 それでも、優しい心には優しい容姿が宿ると僕は思う。何かの映画のワンシーンでこんな台詞があった。「人間は20歳を超えたら自分の顔に責任を持たなければならない」。少し違ったかもしれない。有名な作品のはずだ。覚えている方がいれば教えてもらえたら嬉しい。何にせよ、この言葉には何かしらの説得力がある。

 じゃあ、"なぜ"、"何が"人を優しくするのかということも複雑な問題で、僕は長年そのことについて思いを巡らせてきた。遺伝子がそうさせるのならば、生まれてきた時点で我々は有無を言わさぬ個性という名の檻に閉じ込められているようだ。魂? どうだろう。前世のカルマ? どうだろう。答えはわからない。無記。

 けれど、今、この瞬間から優しくなろうと試みることはできるだろうと僕は想像する。仮に世界の人間存在ががんじがらめの不自由意志に支配されていたとしても、瞬間瞬間の意識の革命を肯定するくらいの自由は人間にも残されていてほしい。これは切なる願いである。

 差別は優しさの欠如とも言える。差別なんて悲しいもの、この世界からなくなってしまえばいい。心の底からそう思う。差別がなくならなければ平和はない。これは紛れもない事実である。

 差別と区別は違うという言い回しも聞いたことがあるけれど、これは僕には難しすぎてお手上げである。なので必要以上に話すことができない。

 ともあれ、僕は差別を悲しいものだと思っている。そのことだけは明記しておきたい。差別主義者にはなりたくない。これは日々、心に刻み続けなくてはならない難題である。

 街の上に正論が渦を巻いている。なんとかしなくてはならない。

(2024.4.26)

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