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ダフネのオルゴール第5話

第二章 空になったプールから

ダイヤモンドリリーという花を知った日の夜、クロエは夕食後に私を呼んだ。クロエは入院当初からずっと、夜間は独りで過ごしていると聞いていたので、なんだかそわそわしてしまう。病室の扉をゆっくり開けると、クロエはベッドの上で仰向けに寝ていた。クロエお気に入りのオルゴールがベッドテーブルの上で優しい音色を奏でている。目線で歓迎の意思を伝えてくるクロエに導かれるように、ベッドに近づいた。

「家族の話がしたくなって」

私がベッド横の椅子に座ると、クロエは天窓スクリーンに映る満天の星を見つめながらつぶやいた。家族。父親。随分前に記憶の海に沈めた不穏なエピソードの断片が脳裏をよぎる。

「……カンザキさんの話を聞いたから?」

「それもあるけど、なんとなく話し合いたくなっただけ。クレスの家族はどんな感じ?」

「そう。でも、私の家族の話なんて聞いてもつまらないよ」

「私の人間の面白味を見つけだす力は一級品だよ?それに、クレスは面白い子だから、ご家族も絶対面白いはず」

「面白いなんて初めて言われた。真面目とか地味とかしか言われないよ」

「クレスの周りの人たちの目は節穴なんだね。本当にただ、クレスの家族の話が聞きたいんだ。自由に話したいことを話して。さぁどうぞどうぞ」

クロエは楽しそうに話を促す。しばらく考えてから口を開いた。

「……私が生まれる前から、お父さんとお母さんは看護師として働いてたみたい。私が小さい頃にムーンヴィレッジに移住して、今も他の病院で二人とも働いてる。忙しそうで、あんまり私の話は聞いてくれない。でも束縛してこないから楽かな」

「クレスは一人っ子?看護師になりたい?」

「一人っ子。進路はまだ迷ってる。クロエは?」

「私も兄弟はいないな。進路かぁ、懐かしい」クロエが緩く笑った。

「……クロエの家族は?」

緊張を悟られないように尋ねた。微笑んだまま私と目を合わせたクロエは、しばらく沈黙したあと静かに語り始めた。

「私の父は完璧主義の教師。母は専業主婦で、自我が無い人。4歳の時に、私には場面かんもく症っていうハンデがあるってことが発覚してね。安心できる場所以外では言葉を発せなかったの。娘に発話のハンデがあるっていう事実を、父は受け入れられなかったみたい。診断された日から、父から殴られたり蹴られたりするようになった。その時までは本当に優しくて大好きな父だったから、子どもの頃は父が誰かと入れ替わったのかと思ったよ。お腹を蹴られて大きなアザができたこともあるし、目の下を殴られて、失明しかけたこともある。言葉の暴力も酷かったな。国語教師だったのにね。家の外では言葉が出せないから、助けを求めることはほぼ不可能だった。なんとかやっと出したSOSも、周りの大人たちには届かなかった。届いても、みんな父の言い分を信じて、私を問題児扱いした。母も保身のために私を無視するようになったよ」

クロエはのんびりとした口調と表情で、辛かったはずの過去を淡々と告白する。必死に感情を抑えている様子ではない。遠くなった思い出を語っているみたいだった。オルゴールの音は小さくなって、もうほとんど聞こえない。拳を握って動揺を抑えた。

「学校に通うようになっても、13になるまで場面かんもく症は治らなくて、同級生と先生からも酷い扱いを受けた。でも、母方の祖父だけは私を愛情深く見守ってくれてた。8歳の時には涙も出なくなって、近所にあった大きな橋の上から落ちようとしたの。死んだほうが楽だと思って。もう足で地面を蹴れば落ちるっていう時に、祖父の顔を思い出して足が動かなくなった。ああ、きっと私が死んだら、祖父だけは本当に悲しんでくれるんだろうなって思ったら、私より先に涙が落ちていってね」

私はクロエをただ見ていることしかできなかった。何か言葉を言おうとしても、間違った言葉しか出ない気がした。

「涙が鼻先から真っ暗な川に落ちていく様子を見てたら、私は死ねないんだって悟って。とりあえず祖父が生きている間は生きようって覚悟した。それでクレスと同じくらいの歳の時に、ムーンヴィレッジに家出してきたの」

クロエがゆっくりと深呼吸をする。疲れた時によく出すサインだ。

「クロエ、無理に話さなくてもいいよ」

「大丈夫。クレスの方がしんどくない?こんな重い身の上話聞かせてごめんね」

「私は、大丈夫だから。気にしなくて、いいから」

私はクロエの壮絶な体験の告白にかなりショックを受けていた。当時のクロエの苦しみは、私には耐えきれるものではないだろう。想像しただけでも苦しい。でも、最後まで聞き役であり続けるするのだと心に決めた。しばらく呼吸を整えていたクロエは、話を再開した。

「ムーンヴィレッジに来たばかりの頃に、倉庫管理の仕事を見つけてね。やみくもに働いてお金を貯めた。祖父をムーンヴィレッジに連れてきて、2人で穏やかに暮らすことが夢だったから」

クロエがほうっと息を吐く。

「でも、22歳の時に祖父が亡くなったって知らせがきて。お葬式に出られなかったから、半年後にお墓を見るまで実感できなかった。それから1年間幽霊みたいに生きてたら、私の病気も見つかった。正直、嬉しかったんだよ。生きる気力なんて、もう残ってなかったから、ちょうどいいやって。貧乏だったけど治験を受けることを条件に、早めにこのホスピスに入れてもらったの。私の家族の話はこれでおしまい」

クロエが話を終えて、満足そうな笑顔を見せてくれたが、私はどうしても笑顔になれない。なにより後半の言葉が心に突き刺さって、自然と口が動いた。

「クロエは、今も病気になったこと、嬉しいと思ってるの?」

クロエの視線を感じる。私は答えを恐れて下を向いていた。

「ここでクレスに会えて、こうしてクレスに話を聴いてもらえていることが、私の人生の中で一番、嬉しいことだよ」

落ち着いた声で答えるクロエの顔を恐る恐る見上げる。自然な笑顔に安心した。

「クレスはさ、私の噂知ってるでしょ?父親殺しって噂」

思わず固まった。クロエは私の反応を見て、確信したようだった。

「私ね、本当に殺してるんだ」

「嘘だよ、思い込みだよ」

世間話のように恐ろしい体験まで告白するクロエを必死に否定するが、真相はイーボリックさんの推測通りであって欲しいという私の甘い希望は、クロエの優しい言葉で潰えていく。

「……ありがとう。でも本当の話なんだよ。誰にも言わないつもりだったけど、クレスにだけは本当のことを知っていてほしくなったんだ」

クロエは真剣な表情で、私の右手首を力強く握った。私がうなづくと、クロエは表情を緩ませて話し始めた。

「父は私を完全にコントロールしようとしてた。完全に父親の人形のような人間になってしまうのが怖くてたまらなくて。自分がそうなってしまいそうな時は、人生を終わらそうと思ってた。それで、父が使ってた強い睡眠薬と、一度にたくさん摂取すると危険な薬剤と注射器をくすねて、いつでも使えるように机に隠してたの。それから本で場面かんもく症のこととムーンヴィレッジを知った。すぐに行こうって決めたんだ。月まで逃げれば自由になれる気がして。でもずっと父に監視されてたから、お金を稼ぐことはできなかった。それで唯一の味方だった祖父に相談して、お金を貸してもらったの。何とかチケットを用意できたけど、出発前日に家出計画がバレた」

明るく光る星を見上げながら、無表情で語るクロエの顔から目が離せない。

「折檻されて気を失って、朝方に全身痛くて目が覚めて。両足が腫れてたけど、なんとか立ち上がって荷物を持ち出して。その時に、睡眠薬を飲んで寝てる父を見つけたの」

クロエは目を閉じて深く呼吸した。息苦しいのだろう。私が酸素吸入器に手を伸ばそうとすると、クロエは片手で私を制した。

「急いで注射器で薬を父の腕に打った。打ってる間に起きるかと思ったけど、ぐっすり眠ってて。それで、すぐに家を飛び出した。あとはムーンヴィレッジ行きのシャトルエレベーターの搭乗手続所まで、ひたすら走って。その時にはもう足の痛みも感じなかったよ。ムーンヴィレッジに着いてしばらくは、地球の誰とも連絡を取らなかった。取れなった、というか。新天地での生活を安定させることで精一杯で、実家でのことを思い出す時間もなくなっていってね。祖父のことで母から連絡がきた時に、父は私が家出した日に自殺したことになってるって、知らされたの」

「……後悔した?」

「あの時はただ必死で、何も考えられなかったよ。憎んではいたけど、昔の父に戻ってくれたらとは、ずっと心の奥で願ってた。でも結局、後悔はしなかったよ。今思うと、もう憎みたくなかったから殺したのかも」

クロエはここまで話して、きっと情けない顔をしている私と目を合わせた。クロエは困ったように笑っている。

「ごめんね。こんな話、聞きたくないよね」

「だから、私のことは気にしないでって。辛いのは、クロエでしょう。本当に、私が聞いてしまっていいの?」

「クレスにしか、きっと話せないし、聞いてもらいたくない」

「……愛の告白されてるみたい」

私が涙声で答えると、クロエが噴き出すように笑い始めた。派手にせき込んだので、慌てて酸素吸入器を手渡した。



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