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壊れないためのあの手この手

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私は、体が滅茶苦茶痛い病気を患っています。
私が、痛みと不眠による疲労で、精神的に壊れないためにやっていたあれやこれやの話です。

このときは、本当に危なくて、
痛み止めの薬を朝に一日分全部飲んでしまったり、
(一日に何日分も飲んだりとかはしませんでしたが)
安易な結論に飛びつこうとしたり、
長く続く痛みと疲労は、死ぬ病気でなくても、
こんなに恐ろしいことになるのかと思いました。

まだ、猛暑で散歩がしにくいのが、困ります。
散歩といっても歩く散歩ではなく、自転車でゆっくり走ります。
時速8kmくらいのとてもゆるいスピードで、走ります。
膝がよくないので、長い距離を歩くのは厳しいのですが、自転車ならできたのです。
それから、私は普段から体に力が入り過ぎているので、リラックスする方向のリハビリがいいのですが、なかなか、プールなどではないと、それは難しい。

自転車なら、ガチガチだと、運転できないし、いろんな所にも注意を向けられる。
私が住んでいる所は田舎なので、植物がたくさんあって、楽しいし、見ていてリラックスできるものが多い。
そういう面がありました。

自転車に乗りが軌道に乗るまでは、とても大変でした。
歩くのも10分から始めたり、股関節が固まり過ぎて、
スタンドを足で動かしにくかったり。

とにかく、酷い痛みと精神的混乱で、本当に正気を失いそうになるので、
何か対処を考えなければならない。
体を動かして衰えていかないようにする。できることを増やしていく。
それも大事なのですが、精神的に耐えられなくなってくるのです。

最初やってみたのは頭の中にあるものを外に出すことでした。
ノートに書くこともありましたが、書ききれなかったり、
指もあまり調子がよくない時期もあったので、
小さなレコーダーに話を吹き込んでいました。

それは、自分の感じたこと、考えたことだったり、
症状だったり、いろいろな内容でした。
内容が長過ぎたり、きつすぎたりするので、
他人に話せなかった。
誰にも話しきれないことを抱えていたので、
たまらない気持ちでした。
奇妙ですが、レコーダーを握りしめていると、
少しうとうとできたりしたのを覚えています。
好きなタイミングで話しかけられる存在がいる
ということで、少し安心したのかもしれません。



結果的にですが、そういうことをやっていたお陰で、
頭がまとまらなくて、
会話がきつかったのですが、
「話す」ということの訓練になっていったような気がします。

ほかには、言葉による暗示みたいなことも、随分やっていました。
これは、私の半自伝的作品の「カタストロフィ・マップ」でも、少し書いたのですが、漫画の台詞などを自分に言い聞かせていました。

「誰にも見えておらぬ道を探すのだ。必ずどこかに、答えに辿り着く入口がある」
(原泰久 キングダム より)


「人は脳や心臓が止まったときだけが”死”なんじゃないと思うの
諦めたときも”死”だと思うの」
(たむらあやこ ふんばれ、がんばれ、ギランバレー より)

漫画だとキャラやストーリーがあるので、
気持ちを乗せやすかったのかもしれません。

これを、必死にやっていました。

説明しにくいのですが、いろいろな言葉で無理やり何か
核というか中心みたいなものを作ってまとめておかないと、
精神的にバラバラに崩れそうな凄く嫌な感覚があったのです。
あれは、なんともいいがたい感覚です。
それが起こらないように、随分、自分のことを文字にしました。

あれがほどけてしまうと、戻ってこれないような気がしましたので
そこは、本当に頑張りました。

あと、これは、もっと初期の頃にやっていたものですが、
掌(てのひら)で何かを触るというのをやっていました。
スマホやパソコンを触るときのように、指先ではなくて、掌。
布団であったり、カーテンであったり、自分の衣服だったりを、掌で触っていました。
そうすると、痛みや感覚が乱反射してたまらない状態の時に、
少しだけ、そちらに意識がいって、マシになるのです。

あと、地図を見るなんていうのもやっていました。
とにかく痛過ぎて、何かに気を逸らさなくてはいけないのですが、
かわいい動物の動画ですら受け付けない状況でしたので、
本なんか、もっと読めないし、
音楽も刺激があり過ぎてダメ。
それこそ、掌で何かを触るとか、レコーダーに何か話しかけている
というようなことで、紛らわすしかないのですが、
それも限界があります。
そんなときに、トイレに入ったときに、壁に地図が貼ってあるのに気づきました。
これは、見ていても大丈夫でした。

どうも、
「意味があり過ぎる刺激だと脳みそが処理しきれなくなってくる。
でも、目を閉じるとか、天井の模様とかだと、意味が無さ過ぎるので、
自分の体に意識がいってしまって、
苦痛で正気が無くなりそうになる」
ということらしくて「地図」なら、意味はあるし
でも、地図には、そんなに脳みそが処理しきれないほどの情報
とくに感情を揺さぶるものがない。
それがよかったみたいです。

最後に。
「聞く」というのは、ラジオでリハビリしたようなことを以前話しました。
でも、リハビリというより、そこから離れられなかったというような所があります。
どういうことかというと、常にどこかで「投げ出したい」という気持ちが沸いてきてしまうので、
何か、自分がのめりこむ刺激を与えていないと、危なかった。
危ないから、何か、聞く、読む、作業する、ということをし続けて、
その危険な気持ちから、目を背ける必要がありました。
当時は、なぜ、こんなに、のめり込んでいるのかわかっていませんでしたが。

家族にも、なんで、そんなに夢中になっているのかと、よく言われました。
そして、他人にもエネルギッシュだと言われたり。


背水の陣のエネルギーじゃない形。
背水の陣のエネルギーは、無理な力です。
その場しのぎで歪んでいく力というか。

そうじゃない生き方が、
必要なのだと思いますが、
なかなか、そこに移れないでいます。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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