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【わたしが詩人であるために】共振するちから、共鳴するちから―先生たちが教えてくれたこと―

こんにちは。長尾早苗です。

以前兄のことを書いたnote、たくさんの方に読んでいただきありがとうございました。

そのこととも関連して、わたしが詩人であるために、中学から高校、大学にかけて先生たちが教えてくれたことを書いていこうと思います。


兄のこと、母のこと、よき理解者だった父。

兄は先日多くの方に読んでいただいたnoteを書く前から

心配していましたが、

本日母と直接会う機会があり、

がんの可能性は限りなく0に近いこと、

そこまで心配しなくて良かったことを伝えてもらいました。

兄はそこまで表情があったり、表現で何かを伝えられなかったので

わたしは母に、とてもかわいがられていました。

たぶん、母が育児で気持ちがふさいでいる時に、

たくさん笑ってたくさん泣いて、表情のくるくる変わるわたしのことが

母はとてもうれしかったんでしょうね。

ことばを覚えていくのも早かったようです。

兄に絵本を読んで何度も笑わせようと

母はがんばっていましたが、先に笑うのはいつだってわたしでした。

父は小学生にわたしがなった時より前にわたしが読書好き、

そして表現が好きだという確固たる軸があると見込んだのでしょうか、

わたしに父の書斎にいつでも入っていいことを告げ、会社に行く毎日が続きました。

その中でわたしは父の書斎から、まずは志賀直哉、三浦綾子、遠藤周作、藤子不二雄、それから茨木のり子と

とても豊かな文学の世界に触れていました。

いま考えるととても豊かな広場の一つだったんだと思います。

誰のことも許してなんかいなかった少女時代

小児喘息、アレルギーを持つわたしは、一緒の小学校に通っていた友人と病院でも会えることにとてもうれしさを感じていました。

しかし、高学年になるにつれて、学級崩壊や執拗な嫌がらせが始まっていきました。

受験勉強を誰よりしなければという思いが強く、

その結果だったのもありますが、神奈川県のフェリス女学院中高に入学が決まりました。

しかし、フェリスは非常にわたしに合っていた学校ではありましたが、以前書いたとおりに

わたしは中学一年生のころ「そくわん」という背骨が横に曲がる病気にかかり、大きな手術をすることになりました。

敏感な自分がさらに「この世からいなくなること」について敏感になっていきました。

背骨に矯正器具を入れた後の痛みは、「くらげちゃん」(第一詩集『聖者の行進』所収)にも入れましたが、すさまじいものでした。

今でこそ「許す」ということを覚え、穏やかになっているわたしですが、そんな時代もありました。

「あなたは『ねば』主義や『べき』主義から卒業しなさい」

ちょうど昨日、このことばを言ってくださった中学の先生から

クリスマスプレゼントが届きました。

わたしの「誰も許していない」という気持ちと、世界への理不尽を理解してくれた先生でした。3月で学校を退職されたようです。


毎年クリスマスにはお手紙をくださる先生。
スイスに旅行に行かれたそうです。

中高では進学校にもかかわらず、難関大学に合格することを求められなかったので、

あなたは詩人としてやっていくといいと思う

と言われたのも中高でした。

ですから、吉田文憲先生や城戸朱理先生など、多くの詩人が教鞭をとり、

また2年に一度はすぐれた詩人を輩出してきたフェリス女学院大学にすすめてくれたのも先生方でした。

「わたしのゼミにあなたは来ないでちょうだい、あなたを守るために」

これ、今考えるとありがたかったです。

わたしは自分が詩集を出すなんて思わずに、キリスト教と文学について学ぼうと、その日本文学科のゼミに進もうとしていました。

しかし大学一年から教授たちと親しかったわたしが、研究室を訪れると

その専門の先生にこういわれました。

わかりやすいことばでいうと「エンパス」と呼ばれるものらしいのですが

わたしは文字の世界の中でも、人との距離であっても

とても共鳴・共振しやすく疲れやすいということ。

それは、詩人としてとても大切な要素であると先生は力説してくださいました。

そしてその先生のゼミの講義がとてもつらい道のりだったことを

ゼミの子たちから後で聞きました。

しかし、その頃よりわたしは当時のツイッターをやっていたため、

先生はわたしのことをツイッターでも見ていてくれて応援してくれていたようです。

もうわたしの大学から何年かすれば、日本文学科はなくなってしまうし

その先生も最終講義をすることになりました。

新たな家族との出会いと、フェイス・トゥ・フェイスじゃないとやっていけなかったこと

どうして家から出られなかった時期を乗り越えられていたのか、

今でも想像が及ばないです。

それでも、詩誌に携わっていたこと、オンラインであったとしても

詩人として一人じゃない

ということに励まされてきました。

新たな家族とは今も支えられ続けていますが、

わたしの「表現したい」という気持ちを誰よりも応援してくれる人でした。

だからこそ、外に出て歩き詩を書くわたしの特性を見抜いて、

今フェイス・トゥ・フェイスで会えるコワーキングスペースを紹介してくれたのも彼でした。

わたしは文字でさえも共感・共振してしまいます。

本当はSNSにも不向きなんじゃないかと先生方に心配されていました。

だからこそ今回、母がどのように兄のことを見守っていたのか、

兄がどんな現状かがわからず、心配と不安が増幅していきました。

でも、今日会えて本当に良かったです。

ほんとうによかった。兄が大変なことにならず安心しました。

たくさんの方に支えられながら、わたしは活動を続けています。

冬至に向けて寒くなってきましたね。

みなさんの今日の夜が、豊かでありますように。

ちょうど先ほど、詩人の星野灯さんからお手紙と
ご恵贈をいただきました。ありがとう!

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