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3台めにして3代目のニーチェアの話

3台めにして3代目のニーチェアが我が家にやってきた。

ニーチェアとは言わずと知れた新居猛デザインの不朽の名作である。
パイプに頒布がかかっていて木の肘かけがあるだけの、シンプルで機能的で美しい椅子。ほんとうはニーチェアXと言う。

私の記憶では、物心がついたときからうちにはニーチェアがあった。
画家であり教師でもある父の椅子だった。
父が大きな体を預けて深くゆったり座る姿はさまになっていたし、空いていたら私と姉で、無理矢理ぎゅうぎゅうと取り合って座ったりしたものだ。
小さな私ひとりではブカブカだったけど、独り占めできたときは、自分だけの時間と空間を確保できたような、いちにんまえのような、そんな気分になれた。

ニーチェアが生まれたのは1970年。
父がいつ手に入れたかはわからないけど、すぐに飛びついたのなら私が生まれる前からあったということになる。
私が7歳のとき、生家から今も住む街中のマンションへ引っ越した。ニーチェアも一緒にここに来たはずだ。

うちのニーチェアはオレンジ色だった。
座面は帆布で、ハンモック的に体重を支えているので摩耗して次第に薄くなってくる。あんなに厚い座面だが、終いにはどこか破れてしまった。
いつかははっきり覚えていない。家族に愛されたニーチェアはうちから静かに姿を消した。

それが1代目のニーチェアである。


父は芸術家で3人の子どももその道に進んだが、母だけがそうではない。
どちらかというと、わりと俗っぽい趣味をしていると思う。

三男坊に嫁いだのに結婚当初より義両親と同居していた母にとって、自分達だけで居を構えたときは、それはそれは嬉しかっただろう。
引っ越し以前からいそいそと足繁く通い、私が初めて新居へ来たときには、趣味の良いソファや照明、カーテンなどがすでに取り付けられ、すぐに暮らせるようになっていた。

ところが家の家具は、新調されるごとに少しずつ母がセレクトしたものに変わっていった。

最初は父が主導で選んでいたのだと思う。父は芸術家だけあって、選ぶもののセンスが良かった。趣味の異なる母は、初めは全て父に従ったのかもしれない。

そういうわけで、いつの間にかニーチェアもなくなったし、リビングのソファは合皮のものへと変わった。
最初のソファは布製で、すり減って破れてしまったというのはもちろん理由としてある。やんちゃな年齢の子供が3人もいれば傷むのも早かっただろう。だけど私は新しいソファがあまり好きではなかった。
大理石の灰皿セットもそのうち出現した。よくドラマで見るやつだ。それが置かれた新しいガラスのテーブルも、もとは天童木工だったのだ。
謎のマッサージチェアも現れた。まあこれは両親がお疲れだったのなら仕方がない。ニーズがあって買ったのだろう。

そんなふうに、あれも、これも、いつのまにか母が選んだであろうものへと変わっていった。
でもこれは、父の、母への愛情だったに違いない。ある時点から、好きにさせたのだと思う。新居は母のお城だったのだ。

どんどん変貌する家の中だったけど、私が7歳から社会人になるまでたったの15年である。15年の時間経過なんて、あっという間だと今ならわかる。
でもそのときは、自分が大人になるまでにものすごく時間が過ぎたような気になっていた。若いころと今の時間の感覚は、ずいぶんと違うものだ。

私は就職して初任給をもらった。
その初任給で、かつて家にあったニーチェアを再び買って父に贈った。
なにがいいだろう、と考えて、あ、あの椅子にしよう!家族の思い出深いあの椅子がいい、と思いついたのだ。 
懐かしいときっと喜んでくれるだろう、と、色は同じオレンジにした。
インターネットもそんなに発達していないころだ。お店でもあまり見かけなくて、おそらく本などでどうにか製造元を調べて直接電話をし、注文した。

そのとき電話口で、はばかりながらニーチェアを買う私の想いをお伝えした。

「実は子供のころに家にあったので、
 初任給でまた両親に贈ろうと思って・・・・」

「あらまぁ、
 大切に思っていただきありがとうございます」

そう返ってくると、少しでも期待していた私が単に浅ましかったのか。

「あ…はぁ、そうですか」

電話口の愛想のないおばさんからは、その程度にしか反応はなかった。

そうして届いたのが2代目である。
ところが父も母も、これまた反応が薄かった。
大切な思い出の椅子と思っていたのは、まさか、私だけだったのか。まだ若かった私は、初代ニーチェアが引退したのは大昔のように感じていたけれど、両親からすれば懐かしいというほどでもなかったのかもしれない。
せっかくの初任給での両親への恩返しというイベントは、すこし物悲しいものに終わった。

でもニーチェアは使い倒された。
またまた帆布がすり減るほどに。
「この椅子なんだか冷えるのよね」と言う母によって、のちに名作の美観を損ねるモコモコした敷物が敷かれた。

しかし父は、ひどいヘルニアをやらかしてしまい、手術をしても治ることはなかった。
歩くときには杖をつくようになり、深く沈むニーチェアにはあまり座らなくなった。深く沈む分、立ち上がりにくいのだ。
これはある程度の歳を重ねると、ヘルニア持ちでなくても実感するようになる。低い椅子は立つ時しんどいよね・・・とは、つい先日私と友人が交わした言葉だ。

2代目のニーチェアは、そのうち畳まれて父の部屋の隅に置かれるようになる。その頃には帆布もだいぶ傷んでいた。
悲しいことに、無用の長物となっていった。

そして父が亡くなった。
床に落ちた油絵具が点々と残る父の部屋は、母の部屋になった。少しでも、父を感じていたいのだろう。
しかし、母はものすごくドライな部分を持ち合わせている。
父の蔵書は早く売りたいというし、父の絵も捨てていいかと聞く始末だ。
愛情がないわけではない。
なんというか、「今」を優先したい人なのだ、たぶん。

壁一面を埋め尽くす本がなくなれば、部屋がずいぶん広くなる。
絵を置いてある棚がなければ、クローゼットが奥まで使える。
父の趣味のひとつでもあったクラシック音楽のレコードのコレクションも、そっくりそのまま父の友人に譲ってしまった。
ちょっと待ってよ、と言ってみても、じゃあどうするのよ、と返ってくる。
たしかに。残念ながら子供たちはクラシックを聴かないし、たくさんの美術書を活用できるほど高尚に育たなかった。でも父が若い頃より薄給から大枚を叩いてコツコツ買い揃えたたくさんの美術書である。そう簡単に手放す覚悟ができるものでもない。
父の本も絵も、かろうじてまだ家に残っている。
でも2代目のニーチェアは、もうない。

父が亡くなって数年後にマンションの大規模改修があり、ベランダを空っぽにしなければならなくなった。
マンションの下には、コンテナが置かれた。
普段は処理費がかかる粗大ゴミでも全部こちらで処分しますから、どんどん放り込んでくださいという大盤振る舞いをしてくれたのだ。
これはありがたかった。
住人からは予想を上回るゴミが出て、コンテナが数回取り替えられたくらいだ。
うちも御多分に洩れず、いろいろと処分させていただいた。

そこで母が聞いてきた。

「あの椅子捨ててもいい?」

・・・かわいい末娘が初任給で贈った思い出の品である。
もうこれ以上何も言うまい。
母はとにかくドライなのだ。

そのときは私も、えーいこの機会になんでも捨ててしまえ!タダだし!
という妙なテンションになっていたのだと思う。
多少渋りはしたが、いいよ、と答えた。
もう使えないのなら仕方ないし。
でも、のちに激しく後悔するのだけど。

これが2代目ニーチェアの顛末だ。


この話は、ただ単に私が3台目(3代目)のニーチェア買ったよ、というだけのものだ。よってこの先は下世話な内容になります。

まず、私が初任給で買ったニーチェアは、たしか2万円代くらいだった。20世紀も末に近づきつつある頃の話である。
今の価格をご存知の方は、え?と思うだろう。

ニーチェアには、元の製造会社が一度生産をやめたという経緯がある。
でもMOMAのパーマネントコレクションにまでなっているこの名作をなくしてはならないと、他社が製造販売を引き継いだ。公式サイトによると、それが2013年から2014年のこと。
だからうちの1代目も2代目も、最初の製造会社のものだ。
なんとニーチェアには、設計図がなかったそうだ。それを現物から紐解き、クオリティを落とさないよう新しく企画され生まれたのが、いまのニーチェアだという。

昔の価格は私の記憶違いかと調べても詳細はわからなかったが、かろうじて某サイトの口コミにこのようなことが書いてあった。
その口コミの時点で新しいニーチェアは4万円超、それでも昔の3倍だとその人は嘆いていた。それでは安く良いものをという、デザイナー新居猛のコンセプトとは随分違っているのではないか、と。
また、2018年のインテリアに関する記事を見つけた。より高価なロッキングのほうで37800円、オットマンは19440円とある。ということは、先の口コミよりさらに前の記事だろう。
いまのロッキングは55000円である。
普通のニーチェは51700円、オットマンは30800円だ。
やはりじわじわと、確実にだいぶと値上がりしているようだ。いつからかはわからないけど、上がる理由も色々とあるのだろう。

今の値段では、若造が初任給でポンと買うにはいささか高い。
4万円代の時点で元の3倍になったというのなら、発売された1970年当初は2万円を切っていたのかもしれない。
発売から50年以上経っている。
50年以上経っているけど、50000円は今でも決して安くはない。
なにせ四大卒の初任給は、私が働き出した頃から何十年もほぼ横這なのだ。

私はこの数年、パーソナルチェアが欲しくてずっと検討に検討を重ね、かつ決めきれずにいた。
リクライニング付きがいいなぁとか、ひっかいたり粗相したりする猫問題のため、洗えたり交換できるものでないとなぁとか。
なにせうちの猫様は、フワフワなものの上で用を足すことに至上の喜びを感じているのだ。

でもこの迷っている時間が勿体無い。よし、もう決めようと友人と本命を見にいった先に、たまたまニーチェアが置いてあった。
そしてせっかくなので久しぶりに座ってみた。
(ニーチェアは候補ではなかったのだ)

「あれ・・・・なんか小さくない? 
 これ子供用?」

思わず口から出た感想がこれである。

でもその翌日くらいに、私は結局ニーチェアを注文した。
移動が楽、畳める、座面を外して洗える、交換できる、フワフワしていない、などなど色々考慮したらベストな選択なのではと、急にズキュンと決まったのである。

悩んでいた数年間はなんだったのか。
それは2代目を捨ててしまった後悔とも無関係ではない。

捨ててしまってから、私は現在のニーチェの価格を知った。
そのときは自分の記憶に確信はなく、え、そんな高かったっけ?と驚いた。
そして座面が交換できることを知り、なら捨てずに新調すれば良かったじゃん!!!と、根っから貧乏性な私は泣きたいほど後悔したのだ。
めざとい人が捨ててあるのを発見したら、持ち帰っているかもしれない。
それならまだいい。誰かが使ってくれているほうがずっと心は楽だ。
まだ使えるものを捨てるのが嫌なのだ。

新しいニーチェアを注文して、私はわくわくしながら到着を待った。
届くまで今のニーチェアについてちょこちょこ調べて、さまざまなパーツが素材から見直されたことを知った。例えば椅子を支えるパイプ部分は、スチールからステンレスになったらしい。たしかに前のニーチェアは晩年には錆が出ていた。座面の縫製の強度も上がったそうだ。(そんなこんなで高くなったのだと思おう)

ようやく届いたニーチェアは、四角く平たいオシャレな箱に入っていた。
今のニーチェアは、ブランディングが抜群に優れている。上がっていく価格を納得させるほどに。(ブランディングってお金かかるよね)
そして人の心理は厄介なもので、高くなるほどより価値があるように感じ、手に入れたくなってしまうのだ。(まんまと手中にハマった感)

組み立ては1人でできるかなという不安もあったが10分もかからなかった。ネジを4本留めるだけだ。

さぁできた。座ってみよう!

・・・ん?
やっぱりなんか小さいんだけど・・・

座った感じの座面が低い。
なんなら手を置いたときの肘掛けも低い。
背もたれだって、短い。
座面の長さもなんだか足りない。

部屋に置かれている姿も、心もとないほどに小さく見える。
私の思い出のものと違うのだ。
でもそれは私が成長したからではない。
2代目を買ったときは成人していたし、体重も変わっていない。私は背も高くない、小柄なホビット族だ。

何も告げず、母に座ってもらった。
同じくホビットな母も開口一番に言った。

「なんか小さくない?」

やはり私の思い違いではなかった。
母は歳をとってさらに縮んでいる。
それでも狭く低くなっていると感じるのだ。

ちょっと思い出と違う気がする新しいニーチェア、それが3代目である。
3台めにして3代目。
どっちの漢字を使おうか迷ってしまう3だいめ。

色はグレーにした。
ほんとはグレーより薄いブルーグレーが欲しかったし、アーム部分もソープフィニッシュがよかった。でもそれだとさらに高い。
かのminä perhonenとのコラボもある。
minäは大好きだけど、きっとまた何か敷かれてあの蝶々は隠れてしまうから、普通のでいいだろう。
歳をとると立ち上がるのがしんどいだけでなく、母と同じく冷えにも弱くなったのだ。

猫さん達はいたく気にいったようだ。
私が座ればすぐに膝に乗ってくるし、横にずれればかろうじて隣にも座れる。私が座らないときは、気持ち良さそうにごろんと寝転がっている。フワフワしていないから、粗相する気にもならないみたいだ。

だから私は、3代目も愛そう。
いや、3台めだけど1台めなのかもしれない。
はじめての、私のニーチェアである。
お金を出したのは2台めだけど、持ち物としては1台め。
なぜロッキングにしなかったかというと、酔うからだ。私はブランコでも酔う。

ちなみに姉にも座ってもらった。

「うーん、小さくなってるかな?」

そう言った姉は2代目を日常的には使っていない。すでに家を出ていたのだ。だから子供の頃の1代目の体感しかない。
そしてもともと長身の姉の体は、幅も厚みもだいぶと大きくなっている。
だからどのみち座れば小さくなったと感じるはずなのにそうでないという時点で、姉の体感は全くあてにならないということにする。

もし本当にニーチェアが小さくなっていたとしたら、2代目を捨てた後悔は少し和らぐだろう。
なぜなら今の交換用の帆布を買っても、サイズが違って入らないはずだからである。だからきっと、残しておいても使えなかったのだ。
(実際、公式サイトで確認すると、前製作会社のニーチェアは座面交換の対象外だということだ)

そんなことで溜飲を下げる、貧乏性というより本当に貧乏な私である。
51700円のニーチェアは、半分以上を貯めていたポイントで払い、キャンペーンで数千円の割引もあり、実質現金は15000円程度しか支払っていないことを最後にバラしておく。

そして母に改めて2代目を捨ててしまった恨み言を伝えたら、なんとあれは、そもそも自分が買ったものだと言い出した。
呆けているわけではない。
どこかの時点で記憶がすり替わっているようなのだ。

それは絶対にない。
2代目を買ったのが母だとしたら、初任給からのくだりの私の記憶は何なのだ。だいたい母は、ニーチェアという名前さえ知らないはずだ。

「お母さんが買ったのは
 マッサージチェアのほうでしょ!?」

強めに反論した。
歳とともにどんどん頑固になっている母は、
そんなもん買ってない、マッサージチェアなんてうちになかった、とさらに強く返してきた。私は色柄やコントローラーまで覚えているというのに。

母がトドメにこう言った。

「あなたがあの椅子を
 初任給でプレゼントしたのなら、
 お父さんはそのこと知ってたの?」


え・・・?
まさか・・・

ま、まさかそんな。


たしかに若かった私は、
照れくさくてサラッとしか伝えなかったかもしれない。 
にしたって、頼んでもない椅子が届いて何も思わないはずはない。
いや、でも、

「ニーチェア買ったから。
 昔うちにあったでしょ?」

この程度にしか言わなかったような気もしてきた。これで全てが伝わるほど、阿吽の親子でもない。
娘が自分のお金で、ただ懐かしい椅子を買った、程度の認識しかなかったという可能性も拭えない。
だいたい母が覚えていない時点で、末娘からの初任給のプレゼントについて、夫婦間で印象的な会話も交わされなかったということではないか。

え、どうなの?
わかってたよね?お父さん!!

しかもだ。
姉に初代ニーチェアがいつからあったか確認したところこう言われた。

「こっちに引っ越してからでしょ。」

・・・なんだかわからなくなってきた。
人の記憶など曖昧なものである。個々人が自分の都合のいいように作り替えてしまうものである。
私の中ではごくごく幼少からあった気でいたニーチェア。でも、たしかに昭和の借家の前の家にニーチェアを悠々と置けるような場所はなかったかもしれない。父のアトリエにあったイメージも、他に置くような部屋も浮かばない。
では父は、引越してから念願叶って購入したのか。にしては捨てられたのがあまりに早くなかったか。
2台めは捨ててしまうまで20年以上は家にあったはずだが、1台めが引越し後に買ったものであれば、たった数年で捨てられたのではないか。

「だってあの上で飛んだり跳ねたりしてたもん」

また姉が衝撃の発言をした。

たしかに。
それも否定できない。たぶん私も共犯だ。
今では5万円以上もする椅子の上で、トランポリンのごとく飛んだり跳ねたり。親の気も知らず、子供たちはそれはそれは荒々しい使い方をしていたのだ、きっと。だから数年で破れてしまったのだろう。


はたして、娘が社会人になって再びうちに来たニーチェアとともに、私の感謝の気持ちは父に届いていたのだろうか。

あれは私が買ったものだといくら言っても納得しない母は、いつになったら信じてくれるのだろうか。

ニーチェアは本当に昔は安かったのか。
サイズは変わってしまったのか。

3台めを手に入れたことで、思わぬ疑念もたくさん背負い込んでしまった。

でもまあいい。
きっとこれが私の最後のニーチェアだ。
これからは座面が破れても交換できるし、リペアもしてもらえるらしい。
一生モノだという文言も見た。
私は3台めだけど。

毎日座っていたら、最初に小さく感じたことも忘れてしまうくらい身体に馴染んできた。ニーチェアの上で変な体勢で昼寝までしてしまう。
座面は使うにつれ伸びて下がっていくし、肘掛けの位置もそのうちいい塩梅になるかもしれない。
やっぱりサイズは変わっていないとしたら、姉の一人勝ちだ。

いつか、捨てずにちゃんと残してある父の絵をたくさん飾れる家に住み、ニーチェアからそれを眺めて父の蔵書を読み漁ろう。

これは私の、ささやかな夢だ。
膝にはもちろん、猫がいる。

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