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「人生の意味」を求めたりせず、「今日一日」を頑張れば、それでいいのか?

このところ、「人生の意味」とか「生きる目的」などに関する記事を書いている。

だが、世の中には「人生の意味や目的なんて考えるよりも、目の前のことを一生懸命にやりなさい」と教える人もいるだろう。
「先のことなんてわからないのだから、人生全体について考えずに、今日一日を大事にするべきである」というわけだ。

今回は、こういった考え方に対して、私なりに思うところを書いてみる。
「『人生の意味を求めること』はそんなに大事なことなのだろうか?」と疑問に思っている人は、読んでみてほしい。


◎一日一日を乗り越えていっても、虚しさは消えてくれなかった

上記のような「人生の意味を探すより、今日一日を大事にしたほうが良い」という考え方は、私も理解できる。
実際、自分でも過去に何度かそういった趣旨の記事を書いたことがあるくらいだ。

たとえば、人生が本当に辛い時には、今日一日を乗り切るだけでも大変だ。
不安や憂鬱な気分に支配され、死にたい気持ちになってしまうこともある。

そういう時には、「とにかく今日一日を精一杯生きよう」とだけ思って、一日一日を生きていく気持ちが大事だ。
「何かを達成しよう」とか、「どこかへ辿り着こう」だとか、そういった先のことは考えず、今日のことだけ考える。
それによって、苦しい毎日を乗り越えていくことができるのだ。

私自身も、過去にメンタルが落ちていた時は、そういう心構えで日々を過ごしていた。
先のことを考えると不安ばかりが湧いてきて、「人生の意味」どころではなかったのだ。

だが、それから時間の経過とともにメンタルが安定してくると、「今日一日を生きること」はさして難しくなくなった。
「死にたい気持ち」になることもなくなり、「生きるのが苦しい」とも感じなくなったのだ。

確かにそれは素晴らしいことではあった。
だが、私は同時に何とも言えない「空虚さ」を感じるようになっていった。

不安や憂鬱に支配されることも減り、仕事も一生懸命していたが、なんとなく心が満たされない。
私は自分が毎日をただ無難にやり過ごしているだけのように感じられ、日々の生活も無味乾燥なものに思えたのだ。

当時の私は、喜びも驚きもなく、充実感を感じることさえない人生を生きていた。
もちろん、私は死んではいなかったが、「生きている」とも言い難かった。

何をしても虚しく、「こんな生活が死ぬまで続くのか…」と思うと、生きていくことが「全くの無意味」に思えたものだった。

◎「無意味な労働」に人は耐えられない

確かに、「今日一日を一生懸命に生きる」という姿勢は大事なものだと思う。

だが、「自分の心がいったい何を求めているのか」ということや、「自分はいったい何によって満たされるのか」とかいったことがわからなければ、そもそも今日一日をどう頑張ったらいいかがわからないだろう。

たとえば、興味の持てない単純労働を我慢してこなし、一日一日をなんとか乗り切っていくことは頑張らなければできないことだが、それは「努力の方向性」がそもそも間違っているように私には思えるのだ。

「やりたくない仕事を我慢して社会に適応すること」も努力と言えばそうなのかもしれないが、そういった努力というのは長く続けることができない。
なぜなら、人は「意味のない努力」には耐えることができないからだ。

ドストエフスキーの『死の家の記録』の中には、「究極の拷問」の話が出てくる。
それは「半日かけて穴を掘らせ、また半日かけてそれを埋めさせる」という無意味で孤独な労働に人を縛り付けるものだ。

なぜこれが「拷問」として機能するかというと、そこに何の「意味」も見出すことができないからだ。
こういった「無意味な労働」に従事させられたら、早晩、気がおかしくなってしまうだろう。

もちろん、ドストエフスキーが書いたほどの「無意味な労働」は、今の日本社会にはないかもしれない。
だが、「何の意味もやりがいも感じられない」と思いながら、生活のために嫌々ながら働いている人は大勢いるはずだ。

たとえ仕事に「意味」は見出せなくても、せめて余暇時間にする趣味にだけでも「意味」が見出せたらいいが、最近は無趣味の人も増えている。
結果、毎日の生活は「無意味な労働」に埋め尽くされ、「何のために生きているのかわからない」という気持ちになってしまっている人も多いのではないかと思う。

◎自分を真に愛さなければ、「人生の意味」はわからない

「今日一日を大事にすること」は確かに重要だ。
だが、そこには常に「どうやって?」という問いがつきまとう。

「何が自分を満たすのか?」
「自分はどういう人間として生きたいのか?」

そういったことがわからないまま表面的なハウツーで取り繕ってみても、私たちの心は満たされない。

「毎日このように生活しなさい」
「こうすることで人生はうまくいく」

そのようなライフハック的なハウツー情報が、ネット上には溢れかえっている。
だが、出来合いのハウツーに盲目的に従うだけでは、ますます「生の空虚感」はひどくなっていってしまうだろう。

なぜなら、そこには「自分の心に対する理解」がないからだ。
「自分の心が何を欲しているのか」を理解しようとしないまま、外から持ってきた情報でうわべだけ取り繕ったとしても、当人の人生はあいかわらず「虚しい」ままだ。

そして、「自分の心を理解しようとしない」ということは、「自分自身の軽視」であり、「自分を尊重しないこと」にも繋がっていく。
「自分の心の声」をないがしろにしてそれに蓋をする生き方は、極端な言い方をすれば、「自分自身に対する暴力」とさえ言えるだろう。

逆に言えば、「自己理解」は真の意味での「健全な自己愛」の基礎とも言える。

「自分を大事にすること」
「自分の心の声に耳を傾けること」

それは、「自分のことを尊重し、自分について理解しようと努めること」であり、これこそが「自分を愛すること」に他ならないのだ。

実際、もしも誰かを愛したならば、その人は相手のことを大事しようとするだろうし、その声に懸命に耳を傾けようともするはずだ。
相手を尊重し、理解しようと努めることは、「愛の表現」そのものなのだ。

自分自身に「愛」を向けるならば、人は自分の気持ちを尊重するだろうし、嫌なものについてはきっぱり「ノー」と言うだろう。
また、もしも「自分が求めているもの」が何かわからなければ、心の声に耳を傾ける内省の時間をしっかり取ろうとするはずだ。

そして、そうすることによって、私たちは自分自身を満たし、生きることに「意味」を感じることが徐々にできるようになっていくのだ。

◎「愛」は理解によって成り立ち、「甘やかし」は無理解に基づいている

ところで、「愛すること」を「甘やかすこと」と混同している人も世の中には居るが、この二つは全く異なっている。
「愛」は対象を理解しようとして関心を向けることによって成り立つが、「甘やかし」は無理解と無関心のもとにおこなわれるからだ。

実際、親が子どもを甘やかす時、その親は子どもに対してほとんど注意を払っていない。
子どもが何を本当に求めているかに関心を持たず、それを理解しようともしないまま、次から次に物を買い与えるのだ。

そんな風に「どうでもいいもの」を与えるのではなく、「本当に欲しいもの」をこそ与えるのが「愛」だ。
そして、それができるのは、相手に関心を寄せて、しっかりと理解しようとしているからなのだ。

また同時に、「愛」は「本当に欲しいもの」を手に入れるためには、時に耐えることも必要であると学ぶように相手を促す。
なぜなら、「本当に欲しいもの」がいつでもすぐに手に入るとは限らないからだ。
「本当に欲しいもの」を手にするためには、「忍耐」が必要な場合もあるわけだ。

◎「我慢ばかりの人生」に人は耐えることができない

「愛」と「甘やかし」が混同されるように、「忍耐」と「我慢」も一緒くたにされがちだ。
だが、これらは互いに異なっている。

「忍耐」には目的があり、「我慢」は無目的だ。
言い換えれば、耐えることに「意味」があるならそれは「忍耐」であり、「意味」が感じられないならそれは「我慢」なのだ。

「我慢」には「出口」というものがない。
「我慢」をする限り、人は「意味のない苦労」にいつまでも耐えることを強いられるのだ。

それゆえ、「我慢」を続けても人はどこにも辿り着けない。
ただ消耗し、疲弊していくだけだ。

しかし、「忍耐」は人を成長させ、最終的には「目的地」へと当人を連れて行ってくれる。
それは、人生を「耐えるに値するもの」へと変えていってくれるのだ。

だが、もしも日々の生活を「耐えるに値するもの」だと感じられないなら、私たちは「人生の重み」を支え続けることができない。
もしもそうなってしまったら、人生は「無意味」に感じられ、「我慢」ばかりの毎日にうんざりしてしまうことだろう。

そして、そこで当人から発されるものこそが、「生きている意味がわからない!」という痛烈な心の叫びなのだ。

◎「無意味な人生だった」と思いながら死ぬことになる前に

以上、今回は「人生の意味や目的について考えるよりも、今日一日を生きろ」という考え方について、別な視点から私の意見をぶつけてみた。

繰り返しになるが、私の意見はこうだ。

「もしも人生の意味や目的がわからなければ、そもそも『今日一日の重み』にさえ耐えられなくなる日がどこかでやってくる」ということだ。

「意味」は私たち自身のことを活かし、「無意味さ」は私たちから生気を奪う。
「無意味さ」がもたらす空虚感に飲み込まれたくないならば、自分自身に「愛」を向け、「自分の心が本当に望んでいるもの」を与えることが必要だ。

人生は時に辛く苦しい。
そういう時には、今日一日を乗り切ることしか考えられないかもしれない。

だが、生きていることそのものが空虚に感じられるならば、自分自身と向き合って、「生きる意味」をこそ求める必要があるだろう。

そして、もしも「生きる意味」がはっきりしたならば、その時には真の意味で「一日一日を大事に生きる」ということも可能になる。
毎日の生活は彩りに溢れ、日々は充実したものに変わるだろう。

「生きる意味」がわからないならば、そもそも「一日一日を耐えるだけの生活」を人は続けていくことができない。
それに、もし仮にそんなことができたとしても、「無意味な日々」をただ我慢して生きていくだけの人生を送ったら、きっと死ぬ時に後悔するはずだ。

だからこそ、まだ時間が残されている今のうちに、「自分の心を満たすこと」を考えるのが大事だと、私は思うのだ。