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僕の思考の回復に向けて

【忙しい人向けの記事の内容についてのメモ】
・自分のなかで、女性のアイデンティティと男性のアイデンティティがある。
・男性人格が主人格、女性人格が基本人格
・主人格と基本人格が入り混じりながら思考しているのかもしれない。
・ただ片方の声だけに集中することもできる。
・男性である自分は普通に異性のことが好き。
・女性である自分は同性的に女性のことが好き。
・好きとなる性別が変わりないので、そこで齟齬は生じにくい。
・人格が崩壊してしまい、色々な人に迷惑をかけた。
・主人格で書くことのできるものを増やしていく。
・解離した基本人格の声も聴こえる。
・基本人格=切り離された私
・主人格=切り離した私
・そこで、2つの切り離しによって生じた人格をどう統合していくか、あるいは共存させていくかが課題となる。基本的には文章を書いてきた主人格をある程度回復させる必要がある。

僕は文章を書くことで考えを整理できている。僕はその意味で一応文章を書く前に書く内容を箇条書きで整理してから書くことにしたい。
僕には、男性のアイデンティティと女性のアイデンティティがあります。子どもの頃から女性羨望があり、セーラームーンという番組を見て、子供心ながらセーラームーンスターズのギャラクシーや、あとは土萌ほたるさんなど微妙に(前者は本当の悪役なのだが)悪役の人に惹かれるところがあった。
その意味で、自分は悪に誘惑されてしまう心を持つ女性、でもそのなかにある善の心(ギャラクシーは改心するし、土萌ほたるもミストレス9から最終的には解放される)というものを信じるということを行うことをしてきた。
ただ男性の悪役でなく、女性の悪役に惹かれやすかった。男性で悪にもなりうることをしたのは自分が知る限りルルーシュ・ランペルージだけである。『ルルーシュの反逆』はその意味で、僕の好きな作品だった。ルルーシュに感情移入するところがあった。
僕はその意味で、女性羨望もありながらもアイデンティティとしては男性ということになる。
その男性の人格の、主人格の男性としての僕だったのだが、そこには一人称は「私」で微妙に声の高さや性格の違いのある基本人格の存在が横に存在している。基本人格はもっと依存的で引っ込み思案で物静かで、とても真面目に見える性格であると思われる。主人格はもう少し元気がある。そして、男性的だと思う。基本人格はその意味でトランスジェンダーなのだと思う。基本人格はトランスジェンダーだけど、主人格が男性なので、男性に合わせている時が多いけど、一時期髪を伸ばしていた時期があって、それはたぶん基本人格(=高校まではこの人格で外で生きてきた)の方が上手く対処できるのではないかということがあったので、(留学の時であったか)そうしていた時があったのである。
実は今のところ思考上2つの人格が混線することがあって、その混線については意識がどうも干渉し合うような事態が起きていると理解することができていると思われる。
その干渉し合いがこのように自己の言葉に影響を与えるということがあった。

言葉のなかで、生きるということは、精神分析では象徴界のなかで主体として振る舞うということである。
何らかの仕方で象徴界の作用を受け入れなければならない。

ただ、僕はそれではなく自分をどういう性と見なすかというそこにおいて、すでにつまり象徴界に参入する時に、言葉を語る主体が二分化してしまい、10代後半まで(高校まで)は女性人格(基本人格)主体だったのだが、そこからは男性人格(主人格)主体に変わったのである。

僕はその意味で人格が本格的に割れ始めたのは10代ごろだと思っている。
そのなかでは家の中では主人格だったけど、家の外(中学高校)では基本人格だった。
そうした人格の解離があって、自分のなかで言葉を語る時に2つの仕方があるということはなんとなく理解している。

僕は(「僕は」と語る時は主人格です)そうした解離の問題を受け止めて、どう自分の言葉を持つことができるかを考えることができるのではないかと思われる。

僕のなかでそのような生き方を選択するに当たって、最終的には自分の身体の性に合わせようと思う。
身体の性に合わせるということは、男性としての自分の身体に現実感を持つということである。

ここで、主人格と基本人格について紹介すると、
主人格=男性で、異性愛者
基本人格=トランスジェンダー(Xジェンダー?)で、レズビアン
なのだと思う。

こうした主人格と基本人格があるということ、
それは確かに自分の言葉だけど、
実際にそうなのだから、
そうとしか言いようのない解離の問題を抱えている。

だから自分はなんとなく女性と距離が近い時があり、
それは、自分にはレズビアン的傾向があるからだと思う。

ただ男性が自分の性自認になっている時は、さすがに異性には異性の距離ができていると思う。
それは自然にできている。

僕はこのようにして好きになる性別においては差異がないので、その意味では、齟齬は生じにくい。(人格ごとに、例えば男性が好き、女性が好きと分かれていたら、大変コミュニケーションしにくい時があると思う。)

ただ、女性に対して異性としてつまり男として向き合う時、そして女性に対してより同性的に接する時とでは言葉遣いも違うし、人によってどちらを自分に求めているのかということは大きな差があると思う。

僕は主人格に基本人格を統合していくのが良いのかなと思う。
基本人格は基本人格で、確かに大事な役目を果たしていたが、僕自身、精神病的になって人と上手く信頼関係を継続できなくなり、
社会的に辛い思いをしたという個人的経験をしたので、
こうしたことを繰り返したくなく、自分の社会的人格としての主人格を
ある程度回復させていく必要があるのではないかと思う。

僕は確かに解離した基本人格の声も、こうして言葉を発する時に聴こえる。その「もう一人の自分」の声を聞きつつ、
こうした場では、ある程度しっかりと振る舞うことが必要なのかなと思う。

「もう一人の自分」(=基本人格)は基本人格で、その声は聴こえる。
そのなかで、「自分」(=主人格)の振る舞いも、もしかしたらその声を聴くことによって、
「自分」に対する気づきによって、変わっていくことはあると思われる。

基本人格については、実際にそれが「切り離された私」であり、主人格は、実際には「切り離した私」ということになる。

その切り離しがあったことはおそらく事実だと思われるのだが、その両方の自分をどう統合していくか、(たぶん「切り離した私」のなかに「切り離された私」を統合していくというのが社会生活上良いのかもしれない)、あるいは共存させていくかという問いが生じるのだと思う。
難しいことはあるけれど、確かにこの2つの切り離しによって生まれた私を意識のなかで統合していく、そして願わくば無意識に統合していく必要があるのではないだろうか。

僕自身は文章を書いてきた過去があるので、主人格のなかに基本人格を入れて、そうすると主人格として学んできた文章スキル自体は失われないのかなと思う。

そうしたことをすることで、僕は周りの人からある程度理解される解離性障害の人になれるのではないかと思われる。
(もちろん、基本人格の声は声で書き留めるタイミングは必要かもと思う。)

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