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メタ自己という観点を持つこと

このところ、自分について考えるうえで参考になったことを挙げていきます。
私の状態ですが、確かに解離症状のようなものがあると思います。
私が以前に人に話している様子が録音されたファイルを聞きました。
そこで自分が話しているその様子は自分が自己感として感じるものとだいぶ違いました。
もしかしたら自分は精神疾患の悪化によって、自分の感覚そのものを失ってしまっていたのかもしれないです。
その自分の感覚を失うことが離人とか解離とかで説明されることかもしれないです。その感覚がとても重いものであったのかもしれないです。
そうしたことを感じています。
その感覚を感じ、今は自分である本のことを想起します。
『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』という本です。

この本のなかで、フィアネス・ゲージという人の例が取り上げられています。事故で大怪我を負った後、人格が大きく変わってしまい、粗雑な感じ、攻撃的な感じになってしまったということです。
それは自分のなかでも人格の変化という問題で感じるところはあったのかもしれないです。その人格の変化という問題について自分でコントロールできるところはあるかもしれないです。

このところ読んだ本で、メタ自己という話がありました。それは超越論的自己で、経験的自己を制御するということです。メタ自己=制御する自己が、経験的実在である制御される自己を制御するところから、〈近代的個人〉の概念が生まれるということです。
私は分人のアイデアにこれまで言及してきたのですが、また私自身は分人的あり方に近かったのかもしれないですが、自己の制御ということについてきっちりした方が良いのではないかとやはり思わされました。
自分がコントロールできない状況で世に放たれると何か問題を犯してしまうかもしれないですし、自分のなかで確かに抑えられないものを感じていたのかもしれないですが、その抑えられない自分をベタに生きてしまうと、またそこからメタな制御可能性を失ってしまうと何を自分がしてしまうか分からないので、私自身、現実性の感覚が少ないインターネットのなかで何を言ってしまうか本当に注意をしないと難しいところがあると思いますので、こうしたことを踏まえて、私自身〈近代的個人〉を生き直そうと思いました。
メタ自己については次の本です。

近代的な〈個人〉というのは、自由意志にもとづいて選択し、その選択の結果を自己の責任として引き受ける存在である。そのような〈個人〉が成立するためには、自己のみが自己を特権的に制御でき、かつその自己が過去・現在・未来を通じて同じもの=「この私」でなければならない。そうしたメタ自己をもつ個人が〈個人〉なのである。

佐藤俊樹 『社会は情報化の夢を見る:[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望』河出文庫、2010、102頁。

だからこそ、本章2節で見たように、自己を特権的に制御できるメタ自己という観念が重要なのである。/ここで「自己」が二重に出てくる点に注意してほしい。制御される自己/制御する自己=メタ自己の二つである。ミシェル・フーコーはこうした近代的な個人のあり方を「経験的=超越論的二重体」と呼んでいる(M・フーコー『言葉と物』新潮社)。この二重の自己のうち、制御される自己というのは、操作される対象として経験的な実在性をもっている。それに対して、制御するメタ自己は、個人の反省や自己像に依拠した理念的な存在である。いわば、「そういうメタ自己がある」と信じられている、としかいいようがないものだ。

佐藤俊樹 『社会は情報化の夢を見る:[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望』河出文庫、2010、122-123頁。 

そのメタ自己の感覚が壊れてしまっているということにおいて、自分の状態はまとめられるのではないかと思います。
実際、同じ投稿においても、また通時的にも「だ・である」調と「です・ます」調が混じってしまうということがありましたし、自分の意識のあり様が文章を書いている途中に変わってしまうということがあったのかもしれないです。
そうした意識の変化をでも自分は制御する自己(メタ自己)の視点から眺めることで、何とか自分を保ち、コミュニケーションすることはできないのだろうか。
確かに自分に解離症状はあるかと思います。医師も解離症状は認めています。
そして、その解離症状があるなかで自分はどう経験的に解離したと感じられる人格を制御できるようになるかという視点もあり、それは自分にとってむしろその解離した人格をベタに生きてしまわない、「眼差しとしての私」の視点をしっかり持つことによって、自分の行動を制御できるようになるのではないかということです。

とりわけネットでは現実感はただでさえ低減していて、強い言葉を使ってしまうことがあったかもしれないですが、そのなかで自分に何ができるのかということを見つめたいと思います。

P.S. 音楽を聴くと、割合解離性幻聴的なものに対して効果があるということに気づきました。というか、視界が開かれる感じがあります。それは「眼差しとしての私」というのがしっかりと覚醒されている状態、それは自分にとってメタ自己(=制御する自己)がしっかりと起動している状態になるということではないかと思いました。そうしたことを踏まえて、今後のnoteは書いていきたいと思います。


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