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大陸浪人時代 ~田舎教師と愉快な仲間たち~

 常州というのは、上海から当時、列車で4時間くらいのところにある街。つい数年、訪れた時にはまったく信じられないような発展ぶりだったので、隔世の感が否めないが、当時は上海からみると僻地と言っていいような所だった。少なくとも私の生活の舞台となったあたりは。駅前が一番発展しているのだが、上海とは違って、基本的に外国人がいない。現地人の現地人による現地人のための街みたいな感じだった。その後わかったのだが、少しクルマで移動をすると日系企業等、外国資本の工場もちらほらあったようだが、私の生活圏内では同地で外国人と遭遇する事は皆無だった。

現地の専門学校みたいな学校で私は同校初の外国人教師になった。日本語を教える教師だ。

 日本語サロンで出会った中国人の紹介によってここでの職を得た。

 就労ビザもこの職によって正式にもらえたし所得も安定したので、大いに助かった。

 私の赴任した学校は常州でもさらに僻地の方にあり、駅前からバイクタクシーに乗って、かっ飛ばしても20~30分はかかる距離。見渡す限りの江南の田園風景の中になんの脈絡もなくポツンとできたキャンパスだった。

 日本人の感覚からすると大陸での生活にはあらゆる場面でなんとも言えない「だらしなさ」が常に見え隠れするのだが、キャンパス自体がだらしなかった。永遠の未完成みたいなキャンパスだった。

 運動場の途中から田になっていたり、キャンパスの中に民家が突然あったりして、どこからどこまでが学校で、どこからが一般社会なのか、境目がはっきりしない、だだっ広い荒野に脈絡もなく突然現れたという感じの、冷たいコンクリートの要塞。そんなキャンパスだった。

 上海ではダザイさんの外国人専用住宅に常にあこがれていたのだが、ついに私にもそれが得られた。これはうれしかった!!

 が、ダザイさんのとは、何か違う。

 確かに部屋は3つか4つくらいあって、シャワーも台所もついていたし、水道光熱費は学校が負担。私は給与をもらうだけで一切の負担はなし。悪い内容ではないのだが、それ以前にダザイさんの豪華な宿泊施設を観ていたので、やはり、何か違うなとは思った。

 一番違ったのは、ダザイさんの部屋にはカーペットがあり、壁紙が貼ってあったのだが、私の部屋は床も壁もうちっぱなしのコンクリート。労働者たちがつくりあげた、その直後の状態みたいなのが、私の部屋の完成形だった。だから、冬場はものすごく寒い。極寒だ。

 どれだけ寒いかというと、あまりの寒さに耐えきれず、ある冬の日、泣きそうになりながらバスで1時間乗って街へ出て、スーパーで電気ストーブを合計4個買ったくらいだ。もう我慢できない!と思うくらい寒かったので、給与を全部使うくらいの勢いだった。それくらい寒くて、耐えられないくらいだった。

 ほくほくする気持ちで家路につき、4個のストーブを寝室で同時に点火したら、コンセントが、ボッと、火を噴いた。結局、コンセントは死んでしまった。そんな事もあった。

 あれから20年近くたった今でも、冬の寒さに震える時、あの日々、コンクリートのうちっぱなしの部屋で震えていた日々を思い出す。

 もともとは、冬の寒さは気持ちがシャキッとするのですきだったのだが、常州での生活以来、私は冬嫌いになった。

 初の外国人教師!

 なんのアカデミックな背景も持たず、ただ日本人であって日本語を母語とする、というだけで、おおいに歓迎された。

 就労ビザまでもらえた。

 これは一つには当時の時勢のなせるわざだった。

 もう一つは、これは今でもそうだと思うが、大陸でのサバイバルでは「人脈」がなによりモノを言う。紹介してくれた人の「スジ」が良かったのだ。

 この学校での教師時代、忘れがたい人物やエピソードが山のようにある。

 いくつか拾ってみる。

■ イエローリーの事 ■

 仮名として彼女をイエローリーと名付ける。

 18歳の女学生で、控えめに言ってもどんくさい、すべてにおいて田舎者という感じだが、燃えるような情熱をもって日本語を習得しようとしていた。背は小さく、顔のつくりやなにやらすべてが丸くできていて、その割に行動力というか動きが敏速で、いつもコロコロと転がるように移動して私の前に現れ、去っていく。いつもコロコロと。

 彼女は中国人学生のあいだでは浮いた存在だった。

 中国で日本語を学ぶという事自体がすでに現地の感覚としては浮いている事なのだが、その集団の中でさえ、彼女は浮いていて、基本的に誰ともつるまず、いつも一人で行動していたが、まあ、明るい事。いつもニコニコしていて、孤独などみじんも感じさせない。

 基本的に、この学校はスタンスとしては職業訓練校のようなものだったので、学問を向上させるというよりも、来るべき就職に備えた実務的な教育を施す施設というスタンスの学校であったかと思う。

 だが、これは認めざるを得ないのだが、大陸人のすごいところは、一見、常識人の感覚としては上記のような学校であったとしても、人によっては上昇志向がすさまじく、かえって、そのような環境から這い上がって見せる!というエネルギーを猛烈に燃やす子供たちが、たまに見受けられた。

 そのような子供たちの持つエネルギー、執念、努力、これは恐ろしいほどである。それはそれはすさまじいエネルギーを発揮して「這い上がって見せる!」との気概をまき散らしていて、圧倒されそうになる事もあったが、今では私も年をとったので、今なら圧倒されるだろうが、当時はそのようなすさまじい彼ら、彼女らをもさらに圧倒するくらいのエネルギーが私には確かにあった。だからこそ、このような世界の果てのような地で、たった一人の外国人として1000人近くの学生の相手ができたのだと思う。若いというのは、実に素晴らしい事だ。

 とにかく、中にはすごいやつもいた。

 イエローリーもそのような執念とエネルギーを持つ学生の一人だった。

 ただ、彼女の場合は、文学へのちょっとした情熱みたいなものも持っていて、そこが、彼女が周囲から浮いた存在であった一つの理由なのかとも思う。

 花がきれいだとか、空がきれいだとか、夏の朝の空気感が好きだとか、また、子供の頃に見た風景がいかに美しく心に残っているかとか、そんな詩的な思いを18になっても保ち続けていて、そのような詩的な思いを共有できる相手に飢えていた。そのような空想じみた詩的な思いを日本語で表現したがっていた。日本人とはそのような美的、詩的なものを愛する人々だから、あの先生もきっとそうだ、と直感的に思っていたらしい。

 基本的に大陸人というのは現実的、即物的なところに興味を持つ傾向が多いのかなと思うのだが、イエローリーはそういうのとは少し違ったところに興味を持ち、情熱の対象としていて、どうにかそれを自分なりに表現したいと思っていた。

 周りの学生たちにしてみたら「は?」という感じなのだが、本人は真剣だ。

 そこへ外国人がポンっと現れた。

 さらにその頃の私は丁度、ダザイさんの影響で文学への興味を燃やし始めていたから、そういう空気感というのは、なんとなく通じるものだから、イエローリーとは私は気が合った。

 文豪・魯迅の作品に「藤野先生」というエッセーがある。

 魯迅が日本に留学した際に、とても親切にしてくれて印象に残ったという日本人の先生についてのエッセーだが、私は藤野先生を気取り、イエローリーに接する事にした。

 イエローリーはいつも朝一で職員室に来て、自分で書いたという日本語の詩やらエッセーやらを持ってきて私に添削してくれという。

 朝一で渡せば私は暇だから夕方には添削したものが手元に戻ってきて、それをもとに夜自学して、次の日の朝にはそこからさらに発展した勉強ができる、という計算からだ。大したハングリー精神だ。

 私も藤野先生を気取っている手前、正直めんどっちーなとは思いつつも、イエローリーの書いたとても日本語の体を成していない詩やらを、赤ペンで真っ赤になるくらいに添削してあげた。

 情熱はもっていたがイエローリーの日本語は当初壊滅的で、むしろ落第生に近いレベルだったが、私とのやりとりの成果だろうか、1年後にさよならの時を迎える頃には、まあ、日本語がペラペラ。一緒に蘇州に連れて行って通訳をしてもらった事もあったくらいだ。実にたいしたものだった。

 詩を愛し、将来は文筆で生計を立てたいと、少女の夢を膨らませていたイエローリーも、今では1児の母。生計が厳しいらしく、

 「先生(私は今でもそう呼ばれている)、何かいい商売ありませんか?」

 と今でも定期的に連絡がくる。

 そう。彼女も青春時代を終えて、即物的な、実際的な対象に興味を持つ、普通の主婦になった。。

 そのような実際的、ビジネスチャンスを求める的なやりとりと合わせて、時折、自宅の周辺に広がる田園の風景や、お子様が無邪気に遊んでいる様子などの写真を送ってくれるのを見ると、実に感慨深いものがある。

■ オーストラリア娘、フェイビーの登場 ■

 同校初の外国人教師としての厚遇を得ていた私だったが、ある日、思わぬ衝撃のニュースを耳にする事になった。

 「2人目の外国人教師が来る!こんどは白人だ!」

 !!!!

 これには驚いた。

 牧歌的な田舎で、誰も見る事のなかった史上初の外国人として、純朴な現地の子供たちになんの根拠もなく臆面もなく世界を語っていたのが私だったのだが、なんと、もう一人外国人が来る!

 しかも今度は白人のオーストラリア人で英語の先生らしい!!

 これは衝撃だった。

 ある意味外国人としての既得権益を欲しいままにしていた私の、沽券にかかわりかねない!(笑) 

 しかも、やはり、日本語より英語の方が学習需要は高いから、その先生はきっとみんなの人気者になるだろう(笑)

 外国人教師が2人いれば、きっと力量も比較されて、ひょっとしたら給与とか待遇も下がるかもしれない(笑)

 ちょっとした恐慌状態になった。正直。

 この時の経験から、私はけっして、いついかなる時も、お山の大将にだけはなるまい!と、一つの人生哲学をまた一つ手に入れた。

 結果的に、オーストラリア娘のフェイビー先生は、とてもナイスな人柄で、大の仲良しになった。

 教員住宅で私の隣部屋だったという事もあり、よく、コーヒーをごちそうになりながら、フランス語を教えてもらったり、とても仲良しになれた。

 フェイビーはとても優秀でフランス語も操れた。

 イメージとしてはバックパックを背負って世界を旅する欧米人の娘っ子みたいな感じで、好奇心も強く、また上昇志向も強かった。

 1年後、彼女はこの学校から、別の都市の一流大学に講師として招かれる。今は母国に帰り、政府の仕事をしている。

 さて、フェイビーと仲良しになれたのには、実は理由があった。イエローリーとならぶ強烈な個性を持った女学生、ダンさんだ。

 ダンさんとフェイビーの話をするのはかなり長くなるし、大切に記したいエピソードなので、次回、丁寧に記していこうと思います。

 続く。





 



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