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最後は「魂」が入っているか

作品展提出締切が今月末となり、続々と作品が集まってきています。

生徒さんたちと最後の最後に作品を選ぶとき、
「最後は“魂が入っているかどうか」と、私はよく言いますね。

「魂」という日常ではあまり使い慣れない言葉に、多少なり戸惑う生徒さんもいるかと思うので、少し解説をしておこうと思います。

(写真は真言宗豊山派金剛院様に納めさせていただいた寧月作品「魂」です)

「魂」と「心」

「魂」とは何でしょうか。おそらくそれは、人間には捉え切ることのできない時空間の中で循環しているものであり、宇宙そのもの。東洋思想のいろんな聖典に触れるとそのようなものらしいのですが、私などにはまだその辺の深淵を知ることはできません。

「魂」と似たような言葉に「心」というのもあります。
「心を込めて」と「魂を込めて」では、どのように異なるでしょうか。

私の考えを、社会的に分かりやすい言葉を使って説明してみるのであれば、
「魂」は「潜在意識」に近く、「心」は「顕在意識」に近いと思います。

まずは「心」と言動と行動を一致させる

「心」は「顕在意識」に近いと書きました。

「今日はカレーが食べたい」とか「あの人の声が好き」とか、自分で認識できているのは「心」の作用。欲求、感情ということもできます。

生まれたばかりのときは欲求がシンプルで、それに対する感情もシンプル。それが、人生を重ねるごとに複雑化します。満たされる欲求もあれば、満たされない欲求もあり、それによる感情も、優越感、劣等感、嫉妬心、欠乏感、などなどが混ざり合ってくるのです。

「カレーが食べたい」と「心」が思っているときに、カレーを食べることができればいい。食べることができなくても、せめて、「食べたい」と言えればいい。

人生が複雑化してきていると、「カレーが食べたい」と「心」が思っているのに、「カレーが食べたいなんて言ったら恥ずかしい」とか思って、それを心の中に隠してしまったりする。このような状態は、「心」と言動と行動が一致していない状態です。

この「心」と言動と行動が一致していない状態が続くと、人間はだんだん、自分の「心」というものがわからなくなってくる。社会で生きていると、学歴やら収入やら他者からの視線やら、いろんなことが絡んで、「心」を見失ってしまう状態に陥ることはありふれているように感じます。

「魂」と「心」が一致する状態を目指してみる

さて、話が「心」に飛びましたが、まずは「心」と言動と行動を一致させる。そして、次は、どうしたら顕在意識である「心」と潜在意識である「魂」が一致するのか。そこを考えてみたいのです。

「魂」が「心」の奥にある、潜在意識であるとします。自分では感知することのできない、けれど自分の奥底で自分の顕在意識をも司っている、言わば「本当の自分」。

「本当の自分とは何か」と考え始めると、いろんな事柄が頭に浮かんできます。頭に浮かんでいることの全部は顕在意識であり、「心」です。思考は「心」だと思います。ならば、「魂」は考えきった後に残るもの、感じきった後に残るものだと思うのです。むしろ、何も考えていない時の自分。何も感じていない時の自分。自分という存在を忘れている自分。

「魂」に至る修行の一つとして、人間は瞑想を続けてきました。私も、よく瞑想をします。書道は「書く瞑想」とも言われます。書き続けるうちに、自分が宇宙と一体化したような気分になるのです。

最後は「魂」が入っているか

では、「魂」の入っている作品とはどのような作品でしょうか。

まずは、「心」を安定化させておく必要があります。自分の「心」に日々素直に生きてみる。自分の「心」に嘘をつかない。これは以前のブログで書いた「自分に与えられた日々を目一杯生きる」につながります。

そして、作品に臨むときには、なぜ自分はそれを書きたいのか、その作品を作った人の言葉、その人の生き方や自分とのつながりを、考えて、感じて、感じて、感じ切ります。この作業は、日常の練習そのものにあたるかもしれません。

「上手く書きたい」とか「褒められたい」とかそういう感情が残っている時は、大抵失敗します。人から与えられた課題を半ば嫌々書くときも、私の考えでは、正直「魂」には全く繋がれないと思います。私が書塾で書く課題を生徒さん自身に選んでいただいている理由は、ここにあります。

むずかしく感じるかもしれませんが、日々書道をしていると、書道自体が瞑想になるので、次第に「何も考えていない自分」で書ける瞬間を体験することができるようになります。

「あ、今、私何も考えてなかった!」みたいなときに、不思議な力に導かれたような集中力で、勝手に筆が動いて、ものすごくエネルギーの篭った作品が、ふと、書けてしまったりするのです。そういう状態で書いた作品が「魂が入っている」ということになるのだと思います。

子どもは「魂」につながりやすい

最後に、補足にはなりますが。想像しやすいと思いますが、子どもというのは「魂」につながりやすいです。何も考えていないからです。

まだまだ社会で傷ついた経験も少ないので、「心」に素直に生きています。そして複雑なことは考えないので、「心=魂」の状態に近い生き物のように思います。

だからこそ、子どもの作品というのはすごいエネルギー量です。線に込められた力が、すごい。「美しく書こう」という邪念が微塵もない作品は、美しいのです。

さて、あれこれと偉そうなことを書きましたが、私自身「カレーが食べたい」のに、「パスタが食べたい」とか言ってしまう凡人です。


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