9.Epilogue おわりに
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。
このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。
いよいよエピローグです。まさかこれを書く日が来るとは夢にも思いませんでした。ぼくの人生はこの「ファイナルボキャブラリー」を書くためだけに費やされてきたと言っても過言ではありません。すくなくともこの15年が終わります。
生きるのに生きづらさ感じていた20歳そこそこのころ宮台真司をよく読んでいました。ぼくは中学時代にオウム真理教事件と阪神大震災があって高校時代に少年Aの神戸事件があった世代です。同世代で「自意識と言う意識の高い系」の知的な人は誰もが一度は宮台真司を経由する、そういう時代でした。
とはいえ、その当時のぼくが自分の生きづらさを彼の著作に重ねていたのは確かでした。宮台真司は評価の分かれる人ではありますが、ぼくにとっては当時の生きる指針であったし、彼からの問いかけに答える形でここまで生きてきたわけなので大きな影響を受けた人であることに変わりはありません。
神戸事件を起こした少年Aが神戸新聞社に送った手記にあった「透明な存在」という言葉は当時の宮台が戦略的に使っていた言葉でした。当時のぼくには我が言葉のように思えたものです。なにしろ自身の生の感覚が希薄だったし、なんのために生きているかなんて分かりませんでした。延々と続いていく「終わりなき日常」を思っては何者になれない自分の存在に溺れていたわけです。
そう言えば、少年Aは最近「元少年A」として手記を出版したことでも話題になりました。別にそれは読んでいません。興味もさほどわきません。そのころの少年少女は誰もが多かれ少なかれ影響を受けた事件だったのです。10代後半の少年には強い衝撃でした。そういうものとしてご理解ください。
ぼくのここまでの人生のある部分は「終わりなき日常」の「透明な存在」の苦しみに対して答えを出すためにありました。その答えを示唆してくれたのがインプロでした。それを書くことで「おわりに」に代えたいと思います。
以下9400字です。
9. Epilogue おわりに
宮台真司によれば「終わりなき日常」と「透明な存在」は近代社会の必然的な帰結である。さて、社会学の古典的な概念にドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが提唱した「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の別がある。近代以前の伝統的な社会が「ゲマインシャフト」で近代以後の社会が「ゲゼルシャフト」である。
「ゲマインシャフト」は古くからの地縁や血縁によって結びついた共同体である。ゲマインシャフトにあっては人間は生まれの文脈に縛られる。貴族に生まれれば貴族であり小作に生まれれば小作のままである。毎日毎年、同じような時間と季節が巡るだけで、自分の与えられた場所で与えられたまま生きている。それに対して「ゲゼルシャフト」は脱文脈を果たした社会である。生まれに縛られることなく自身の意志と能力によって自身の人生を選び取ることができる。
ゲマインシャフトでは共同体の構成員の役割はすべて決定している。だから「人間は何のために生きるか」「人生の意味とは何か」と問う必要もない。与えられた役割を与えられたように生きるだけだ。しかし、ゲゼルシャフトにおいてはその問いこそが決定的な重さをもつ。すべて自分で選んで決めなければならないからだ。
あらゆる文脈が消去されていくのがゲゼルシャフトならば、それは貨幣化された社会だと考えることができる。貨幣とは入れ替え可能性のことである。近代社会はあらゆるものが入れ替え可能でなければならない。各地の方言は共通言語に統一され、ローカルな運用がされていた行政システムは中央集権的なシステムへと変えられる。
人間もまた同様で、職場や工場で集団で働いてもらうためには、能力にバラつきがあるようでは困るし、新しい商品を買ってもらおうにも取扱説明書を理解する能力がなければ買ってもらえない。人間を平等で入れ替え可能な存在に、規格化=標準化された存在へと改鋳していく必要があった。
だから、学校を中心とする教育装置は近代化の主要なエンジンだった。ゲゼルシャフトの生みだした学校制度は生まれによる差異から子どもたちを切り離して平等で等質な学校という場へ組み込んでしまう。ゲゼルシャフトにとって学校は脱文脈化を果たす装置にほかならない。
近代化はゲマインシャフトを一掃していったとはいえ、すべての文脈を消してしまったわけではない。国家という大きな文脈は残したのだった。つまるところ、近代化とはまずは多様で分散していた文脈を国家という大きな文脈へと統合していくプロセスだった。日本でいえば、各藩に分裂していた社会を大日本帝国というフレームに統合していくプロセスに相当する。
ここに「大きな物語」が誕生する。それまで個々の文脈の物語で生きていた個人は文脈から切り離されて国家の物語へと統合されていったのだ。規格化=標準化は物語を一方的に奪われることではなくてより価値のある偉大な物語へと参加することだった。
そして「大きな物語」は成長と進歩の物語でもあった。「大きな物語」に与ることで国家の成長と進歩に寄与しているという充実感や達成感を個人に得させることも可能にした。文脈を手放した人間に新たな文脈を与えて人生に意味を与えるシステムとして機能したのである。ゲゼルシャフトにつきものの「人間は何のために生きるか」「人生の意味とは何か」という問いに悩む必要もない。しかし、もはや現在「大きな物語」は消失した。
成長とは外部を目指すことだ。「いまここ」ではない世界を明日の世界とすることだった。昨日なかったものが今日はあるという実感が(それは高いビルでも、新しい商品でも、車でも、音楽でもよいのだけど)世界の変化を証してくれた。しかし、進歩と成長がある程度達成されてしまえば世界の大きな変化は見えにくくなる。世界は見慣れたものとなり、新しく生まれる商品も既製品の焼き直しにしか見えなくなる。日々変わることのない日常が延々と続く世界へと変わっていく。それが「終わりなき日常」の世界だ。
それは日本に特別なものでも宮台が発見したものでもない。1840年代のパリでボードレールが見いだしていた「倦怠」の世界にほかならない。ゲゼルシャフトが成熟すれば世界至るところに見いだすことができるのだ。
「倦怠」の世界が訪れるとかつては輝かしいものだった規格化=標準化が毒素のように身体と感情を蝕んでいく。入れ替え可能な存在は「私」がいなくなっても、すぐに誰かが「私」の替りとなれる存在である。「私」が「私」である理由のない存在であり、誰もが同じで誰もが誰でもよいような存在だ。生きていても死んでいても大差ない。それが「透明な存在」である。それは生きている意味や生の実感を根こそぎ失った人間であり、近代化された人間の末路にほかならない。
畢竟「大きな物語」は伝統的なゲマインシャフトから完成されたゲゼルシャフトをつなぐ過渡期の物語だったのだ。大きな物語が消失した時代、人間があらゆる文脈から解放された歴史的なモーメントの時代、その時代の寵児だったジャン=ポール・サルトルは、人間の存在に本質がないこと、人間の本質が無であることを、福音として受け取ることができた。望むなら人間は誰にだってなれるのだと歓喜の声をあげた。
たしかにゲゼルシャフトは自身の人生は自身で選ぶことのできる社会である。しかし、実際にそうなってしまえば何を選んだらよいのか分からないのだ。「何が自分を幸福にするのか」「何を選べば間違いがないのか」さっぱり分からない。それが生きづらさに拍車をかける。
再帰的ライフスタイル
「大きな物語」はゴールを制限する足枷である。しかし、生きる意味など考えなくても生きさせてくれる安全停止装置でもあった。物語を手放さざるをえなくなった現在、自分ですべて決めろと求められれば「ああ生きればいい」「こう生きればいい」と口々に言う人が無数にいて、自由に生きるどころか誰の言葉を信じていいかわからずにただ混乱するばかりである。誰が語る人生の意味が本物なのかを自問自答して自縄自縛に落ち込んでしまう。20代のぼくはそんなだった。
現在の日本はゲゼルシャフトの風が苛烈に吹きすさぶ社会である。「私」の幸福や「私」の人生の意味、「私」の生き方は「私」で選んで「私」が決めなければならない。「私」の物語は「私」が語らなければならないのだ。このように「私」が無数に反復することを社会学の文脈では「再帰性」と呼ぶ。
「再帰的近代化」をテーマに現代社会を分析してきた社会学者アンソニー・ギデンズによれば、伝統などの外部性に依存することができなくなった社会、絶対的に信じられるものや自明なものとして依存できる文脈のなくなった社会では、自分の文脈を自分であてがうことを要求される。要するに、自分の生きるスタイルを自分で作らなければならない。そこで再帰的に選び取られる個人それぞれの生き方を、ギデンズは「ライフスタイル」と呼んでいる。現在はライフスタイルを自分で選ばなければならない時代なのである。
透明で入れ替え可能な存在に印をつけて入れ替え不能で唯一な存在となること、それが自己を再帰的に選択することの意味である。誰でもよいし誰にでもなれるけれど、自分で選んだこの「私」ということである。しかし、それはとても難しい。誰と比べても引けを取らない唯一な在り方など、芸能人やスポーツ選手といったスーパーアイドルならともかく、そうではない人間にはなかなかできるものではないのだ。
宮台真司を唯一の存在にしたものは彼自身が語っているようにナンパとセックスだった。その経緯はぼくが語らずとも本人の著作を見てもらうとして、しかし、その経験があったからこそ無数いる社会学研究者のワン・オブ・ゼムという立ち位置から「ブルセラ社会学者」としてのワン・アンド・オンリーの地位を獲得できたのだった。
透明でキレイな存在にあえて傷や汚れをつけることで自己の唯一性を得ようとする身振りは宮台後に一般化したように見える。現在、SNSやブログで発信している人を見れば、「元風俗嬢」「中退して世界一周」「メンヘラだった」「セクマイです」等々、自身にあえてスティグマをつけることで注目を得ようとする人に造作もなく出会うことができる。
再帰性を強いられる「後期近代」(ハイ・モダニティ)において「アイデンティティ」は自身で選び取られ調整される衣服や仮面に似たものへと変容する。ギデンズはそう論じているけれど彼らは自分のアイデンティティをそうやって選んで演じているのだろう。
そういう生き方を一概に悪いとは思わない。それが幸福であるのならケチはつけられない。でも、ぼくにはできなかった。宮台みたいにナンパを繰り返すのは心身ともに危険にさらすことになるものだし、自身を傷つけることをネタにキャラ化を続けようというチキンレースもひどく疲れそうに感じた。もっとも、ぼく自身の人生の経験に「ウリ」なんてどこにも見出せなかった。
でも、地味な人が大半なのではないかと思うし、あえて危ない橋を渡らなくてもできる範囲で幸福をつかめる生き方もあるのではないかと思いたかった。そのなかで出会ったのがインプロだった。宮台からぼくが勝手にダウンロードした宿題の答えは、ぼくにとってこのインプロだった。
インプロに派手さはない。ナンパで100人切りをしたとか、ホームレスのまま世界一周をしたとか、インパクトのある経験には比べるべくもない。それでも、たしかな生の実感を与えてくれる。インプロを経験することで、ごく普通の人でも、肯定感や自己効力感、唯一性の感覚、フロー感覚、蕩尽するような共通感覚を味わうことができる。そして、「いまここ」に生きている自己の存在の重さを認められるようになる。本来的なグッドネイチャーを輝かせることができるのだ。
***
90年代に宮台真司は「意味から強度へ」というスローガンを打ち出していた。20歳当時のぼくはどうしても「意味」を求めてしまう人間だった。「何者かでなければならない」「誰かに認められる存在でなければならない」という自意識に絡めとられていた。でも、生きている感触の「強度」を得るのに「意味」は要らないことをぼくはインプロの舞台で経験することができた。あの瞬間のシーンやアクションをいまでも鮮明に思い出すことができる。あのときぼくは確かに生きていた。それは疑いえない。
インプロはマインドフルな意識を養う。日常の意識であれば何事もないと見過ごしてしまうもののなかに、微分するマインドフルな意識は差異を認めることができる。「意味」を求めて肥大しきった自意識は、それに見あったサイズの何かでなければ満足させることはできないものだ。でも、その自意識を細かく分けていくことができれば些末だと捨ててきたもののなかにも大切なものがあることに気づけるのだ。
思えばハイデガーも「倦怠」について語っていた。非本来的な「ひと」として生きていれば生の実感が希薄になって倦怠に襲われてしまう。だから、「ひと」は気晴らしを求めるのだった。ハイデガーにとって倦怠とは存在の虚無である。それゆえに、この倦怠が本来的な有り方へ駆け出すスイッチにもなるのだった。
「見えすぎて」しまう透明な存在としての「ひと」に傷をつけて不透明にしてしまうことが、本来的な有り方に一致する理由もここにある。マインドフルネス瞑想に見て以来傷が唯一性を証することは繰り返し言及してきた。しかし、自傷的に自身に傷をつけることはやはり苦しい。
だから、傷は痛みを伴う傷でなくてもよいはずだ。誰にもある記憶という傷が唯一性を支えてくれるということもあるはずだ。そう書いてもきた。マインドフルな意識とは自身の身体に刻まれた細かな思い出の傷に気づく意識にほかならない。そして、記憶の傷を刺激する新たな訪れにも敏感に気づくことができる。ドゥルーズ的な不法侵入でありレヴィナス的な到来でもある「徴し」(シーニュ)というフォーカスにイエス・アンドをして巻き込まれてしまう。そこに唯一性のフロー感覚が生まれるのである。
自身の目だけに見える微細な「徴し」(シーニュ)という暗号を自身のものとして我と我が身に引き受けること、そこに差異としての情報を看取すること、それが人生を唯一の光彩で彩るマインドフルな作法なのだ。
インプロは「私」という存在の発露が「いまここ」の一瞬の関わりのなかで終わるもののなかにさえありえることを教えてくれた。そして、共演してくれたプレイヤーの存在も唯一の素晴らしい存在であることも見せてくれた。別段、彼らが偉大な「意味」をもった人(芸能人や有名人)であるわけではない。ごく普通の一般人ばかりである。それでも、ひとりひとりにしか表現できない何かがあることをいつもぼくに見せてくれた。膨張しきったぼくの自意識に風穴を開けてくれたのがインプロだった。ぼくの「ライフスタイル」が確かに書き換えられた瞬間だった。
インプロに出会う前、ぼくは自分の意味を求めて自分ではない誰かになろうとしていた。誰かに認められる存在になろうとしていた。他者の欲望を欲望していたのだ。しかし、インプロに出逢うことで、ぼく自身の欲望を欲望する術を学んだのだった。ぼくの欲望は、もしかしたらとても小さくて人に自慢できるものではないかもしれない。けれど、小さいものだからこそ、他に換えることのできない唯一なものとして受容することがいまならできる気がする。
インプロの場に立つときには社会に通用するいかなる肩書も役には立たない。すべての物語を剥奪されて剥き出しの生を露わにされる。そして、その状態で新たな物語を生みだしていくことを求められる。新たな物語の材料は当然「いまここ」に生まれたもののなかにしかない。与えられたものだけを使って、協力して、インプロバイザーは物語を語りなおしていくのである。
インプロバイザーはインプロを通じて自身の有限性を受容する。限られた状況のなかで、すべき選択を重ねて自己の物語を生成させていく。重要なことは、自己の有限性、意味のない偶然性、それを肯定することにある。畢竟、インプロのシーンでプレイヤーがしていることは不確定さを増していく後期近代社会のなかで個人に強いられるライフスタイルの再帰的な選択の縮図なのだ。
リベラル・アイロニスト
デューイの後継者をもって自任するアメリカの哲学者リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』において「リベラル・アイロニスト」について論じている。「アイロニスト」は自身の存在がまったくの偶然の産物であることを自覚している。だから、人生に普遍的な意味があるなどと考えることはない。その代わりに自身の人生を意味づける物語を語ろうとする。
ただし、アイロニストの語る物語はその人だけに意味の通るものとして詩的かつ私的な言葉に留まらざるをえない。アイロニストも自身の語る物語が他者にとって意味をもつものと思ってはならない。他者の物語を読むことで感動は得られるかもしれないけれど、その物語はあくまでその人のものであって自身の意味を担保してくれることはない。自身の物語は自身で紡ぐほかはない。
個人が紡ぐ物語を終わりから意味づける言葉をローティは「最終的な語彙」(ファイナルボキャブラリー)と呼んでいる。ぼくの「ファイナルボキャブラリー」は「インプロ」のほかにない。ぼくの人生の経験は「インプロ」を通じて根底から変容し、いまこうして「インプロ」の物語を物語っているわけであり、すべて「インプロ」を通じて意味づけられている。
ローティによれば人間の自己実現はファイナルボキャブラリーを探すことにある。ファイナルボキャブラリーの探索はアイデンティティを形成するために欠くべからざることであって、ギデンズが語るライフスタイルの選択に等しい。あるいはジャック・ラカンの「クッションの綴じ目」の考え方に相当する。
しかし、同時にアイロニストは自身の現在のファイナルボキャブラリーが普遍的で最終的なものではないことも自覚している。いまのぼくにとっては「インプロ」がファイナルボキャブラリーだけれど、それは本当に偶然そうなっただけで他の人にとっても「インプロ」かどうかなんて分からない。
そして、物語はつねに書き換えられうるものだから再記述や再-再記述はいつだってありえる。ぼくにとってのファイナルボキャブラリーが「インプロ」でなくなる日がやってきても不思議ではない。それでも、人間の実存にとっての幸福や自己実現は幾度も書き換えられることを折り込みつつもファイナルボキャブラリーによって自己自身の物語を綴じ込むことにある。
「リベラル・アイロニスト」のアイロニストの部分が人間の私的な実存に関わるものであるのに対して「リベラル」は公的な役割を担う言葉である。ローティにとってリベラルであることとは苦痛に歪む他者の経験を軽減しようとすることである。
ローティによれば人間はそれぞれの物語を生きている。すなわち、それぞれのファイナルボキャブラリーの下に生きている。ファイナルボキャブラリーを共有できない相手の物語を理解できるわけはない。受け容れられるかさえも分からない。しかし、相手が苦しんでいるのならその苦しみを和らげてあげられないかと骨を折ることはできる。それがリベラルの意味である。
ローティはアイロニストであることとリベラルであることは両立するけれど両者に関係はまったくないと断言する。すなわち、私的実存の完成を目指すことと他者と連帯を作っていくことは一切関係のない別の話である。
ローティの言い分も分からなくはない。けれど、インプロを経験しているとアイロニストであることがリベラルを導くこともありえるのではと感じる。インプロのシーンで紡がれる物語、その材料となるボキャブラリーは必ず他者から与えられる。他者とは無縁に物語を紡ぐことはできない。それに不確定なカオスのさなかでオファーを送ってくる共演者は少なからず不安に震えているはずであって、イエス・アンドがその不安や苦しみを和らげるものであることは間違いない。
インプロの物語はアイロニカルな物語だ。普遍的な物語など一切できあがることはない。その瞬間にその場所にだけ生まれる物語ある。その物語にいかに満足する関わり方ができるか、自身の満足できる物語とするかがインプロバイザーたる生き方のエッセンスである。
しかし、インプロの物語はひとりだけ語る物語ではない。共にする共演者や観客と紡ぐ物語である。物語ることを共にすることでリベラルに他者の喜びを支え、苦しみを和らげてやることもまた可能なのではないだろうか。すくなくともぼくは何度となく救ってもらった。だから、他者との関係性の物語を自己の物語として語りなおすことでファイナルボキャブラリーを他者と共有することもインプロバイザーにはできるのではないかと思わずにはいられないのだ。
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インプロを学ぶことでぼくは自分の物語に執着する心に手綱をかけることができた。すなわち「自分が何者か」、そう自問自答して自縄自縛にならずに済むようになった。思いつくかぎり様々な場に出かけていって、様々な文脈で様々な人たちと「いまここ」からどのような関係性の物語が作れるか、それだけに集中して生きるように意識を変えることができた。
その過程でギデンズの言う意味で「しっくりこないアイデンティティ」を演じなければならないことも多々あったし、居づらさや気恥ずかしさを覚えることもあった。けれど、慣れないことでも繰り返していくうちに次第にぼくが関わりやすいアイデンティティや関係性にも気づくようになった。すると次に会いたい人や会うべき人が自然に見えてきた。親身になって話し相手になってくれる人や有益な情報をくれる人との繋がりもできていった。
本当に困ったときに困ったと言えば助けてくれると信じられる人との繋がりもいまではたくさんある。自分の過去と現在と未来をつなぐ安定した自己像、アイデンティティもいまならつくることができる気がする。肥大しきった自意識に振り回されて他者の欲望を欲望しようと空回りしていた時代は遠く過ぎ去り、自己自身を開示して自己の欲望をストレートに語ることもできるのではないかと思える。
「私」の周囲に存在する限られた関係性から自己の物語を書き換えていく能力こそ後期近代の社会で生き抜くために必要な力だと思う。ギデンズによれば再帰的アイデンティティの構築と「純粋な関係性」は密接な関係をもっている。「純粋な関係性」という言葉をギデンズは主に恋愛や結婚の文脈で使用するけれど、それだけに留まらない射程があるようにぼくは思う。
近代以前の伝統的な社会において関係性は文脈に拘束されていた。結婚は血縁関係のため、血筋を残すため、家系の威厳のためにされるもので個人の意向とはほぼ無縁のものだった。しかし、晩婚や非婚が云々されるようにもなった現在は結婚は個々人のライフスタイルに直接関わるものへと変容した。
血縁や生活と言った外的拘束を喪失すれば結婚は純粋な関係性のためにされるようになる。偶然に出会ったふたりがその先の未来を共に生きようとして相互的に作りあげていく関係性、それが純粋な関係性だ。だから、純粋な関係性は自明な関係性ではなく、そのために弛まぬ相互努力を必要とする。畢竟、純粋な関係性は他者応答の関係性である。相手の呼びかけに応え自己を開示しなければ、相互に信頼しあえる関係性を作ることはできない。
現在の日本社会では恋愛や結婚に限らずとも純粋な関係性を作っていくことの価値が高まっているように思う。SNSも普及して、ネットを検索すれば興味深い活動を発信している人に無数に出逢うことができる。純粋にビジネスに邁進している人もいれば、社会的な活動に身を捧げている人もいるだろう。興味を感じる活動をしている人と直接連絡を取ることも随分と簡単になった。会おうとすればいつでも会いに行くこともできる。
ネットの世界には無限の選択肢が潜在している。でも、会いたいからと選んだ、そのひとつの出会いから「運命の出会い」は訪れる。そこから就職や転職やキャリアチェンジが起こる可能性もある。それは誰から強いられたわけでもなく、自身の欲望から選んで作った純粋な関係性だと言えるだろう。だからこそ、自身の人生に生きるべき強度を添えてくれるものともなる。
インプロはぼくに純粋な関係性の作り方、そのヒントを教えてくれた。だからこそ、インプロの精神を皆に伝えていく価値があると思い、この文章を書いてきた。ローティによれば、アイロニカルに自己の物語を紡いでいくテキストとリベラルに他者の苦痛を和らげようとしていくテキストは別物であり、決して交わらないものであった。こうして書いてきた物語は確かにぼくだけにしか通用しないファイナルボキャブラリーで書かれた物語であって、ぼくだけの物語に違いはない。けれど、もしこのテキストに人に読んでもらう力があるのなら、その結果は他者の苦痛を和らげるものでもあってほしいと思わずにはいられない。
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あまりに長く書きつづけてきたこの物語もここで終えることにする。とても長い物語だったけれど、ぼくの考えつづけてきたことはずっと変わらなかったように思う。「大きな物語」が消えてしまった世界、「色即是空」のカオス渦巻く世界でどうやって生きていけばいいのか、どうやって命の意味を見いだしたらいいのか、それだけを考えつづけてきた。
その問いのヒントを教えてくれたのが哲学でありインプロだった。その教えを一言で言えば、マーヒーヤのなかでフウィーヤを肯定すること、入れ替え可能な存在を入れ替え不能な唯一さで輝かすこと、である。そのためには偶然の他者の訪れさえすべて肯定する「イエス・アンド」の力が必要であり、そして、唯一性の輝きを宿す座こそ身体にほかならない。
世界にあって「私」の唯一さを肯定すること、それは、この世界でただひとつの「私」の身体を肯定することだ。この身体で生きていくことなのだ。それは、この身体と世界を共にする人たちと一緒に暮らしていくことなのである。言いたかったことといえば、それだけだ。ただそれだけのことを言いたくて、ここまで学んできたのである。
【了】
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