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書評:開拓使官有物払下げ事件、あなたは正しく理解していますか?-『明治史講義』を読む。

前回『明治史講義【テーマ篇】』(ちくま新書、2018年)の書評という形で、日本の開国年について論じた。一般に、高校の歴史教科書などに書かれた、通説にしか触れてこなかった人にとっては、最新の史料研究の成果に、目から鱗が落ちるような感覚を味わった方も多いのではないか。

そこで今回は、筆者も『明治史講義』を読むまでは誤解していた「開拓使官有物払下げ事件」をめぐる事実関係について、整理してみたい。

開拓使官有物払下げ事件、その教科書的見解

例によって、山川出版社の『詳説 日本史B』を確認してみると、次のように説明されている。

   1878(明治11)年に政府の最高実力者であった大久保利通内務卿が暗殺されてから強力な指導者を欠いていた政府は、このような自由民権運動の高まりを前にして内紛を生じ、大隈重信はイギリス流の議院内閣制の早期導入を主張し、右大臣岩倉具視や伊藤博文と激しく対立した。たまたま、これと同時におこった開拓使官有物払下げ事件(※註釈)で、世論の政府攻撃が激しくなった。1881(明治14)年10月、政府は、大隈をこの世論の動きと関係ありとみて罷免し、欽定憲法制定の基本方針を決定し、国会開設の勅諭を出して、1890年に国会を開設すると公約した。この明治十四年の政変によって、伊藤博文らを中心とする薩長藩閥の政権が確立し、君主権の強い立憲君主制樹立に向けて準備が始められた。※太字=筆者による

これだけでも厳密にいうと指摘出しをしたい部分が三箇所ほどあるのであるが、取り敢えずそれは横に置いておいて、開拓使官有物払下げ事件についての註釈をみてみる。

   1881年(明治14)年、北海道の開拓使所属の官有物を払い下げるに当たり、旧薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆は、同藩出身の政商五代友厚らが関係する関西貿易社に不当に安い価格で払い下げしようとして問題化した。明治十四年の政変で、払下げは中止された。※太字=筆者による

念のために、学術論文や歴史書にもよく引用される日本近代史の概説書『日本の近代2-明治国家の建設1871〜1890』(中公文庫、2012年、305頁)でも該当箇所を確認しておこう。

   すでに五月に決まっていた黒田清隆の開拓使の廃止にともない、開拓使官有物の払い下げが七月三十日に決定した。その内容は、官有物を、無利子三○年賦三八万円という超低価で、黒田と親しい五代友厚が関係する関西貿易会社に払い下げるというものであった。ところが、その決定を見る数日前から、『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』などが、そのことを報じはじめた。八月になると、『朝野新聞』や、それまで政府よりであった福地桜痴(ふくちおうち)の『東京日日新聞』までが、このような不当な払い下げがなされるのも、国会が開設されないからだと、国会開設論と連動したかたちでキャンペーンを張るようになり、世論は激高して、積極財政そのものへの批判もからまって、騒然たる政情となってきた。政府は払い下げ断念を決意せざるをえなくなる。※太字=筆者による

以上のような解説が、教科書的理解であるといえる。『詳説 日本史B』と『日本の近代』それぞれの記述を比較しても、内容に矛盾する点はない。

しかし、『明治史講義』第10講、明治一四年の政変の執筆を担当した真辺将之氏(早稲田大学文学学術院教授)は、「なお、従来、この官有物払下げ問題については事実誤認が非常に多い」と指摘する。

当時の新聞誤報がそのまま引用されていた衝撃

その代表例として真辺氏は、当時の新聞の誤報に基づく事実誤認が、現在でも各種歴史書にそのまま記載されていることを紹介する。

右にみたように、『日本の近代』は官有物の払下げ先を「関西貿易会社」と表記していた。また、日本政治史の教科書として評価の高い北岡伸一著『日本政治史 外交と権力』(有斐閣、2011年)は、これを「関西貿易商会」と表記している。しかし、実際にはそのような会社は存在せず、五代が経営していたのは「関西貿易社」である。この点において、『詳説 日本史B』の表記は正しい。

ところが、近年の史料研究から、払下げ先は関西貿易社ではなく、開拓使官員の安田貞則・折田平内らの設立した北海社が中心であって、関西貿易社は官有物のごく一部(岩内炭鉱と厚岸官林のみ)の払下げを受けようとしたに過ぎないことが判明している。

『明治史講義』を初読したとき、あまりの衝撃に、書棚の歴史書を片っ端から引っ張りだして、該当箇所を確認したことを思い出す。抑も、「北海社」という社名自体も見聞きした覚えがなく、目から鱗が落ちるとはこのことか、と手を打った次第である。

そして、五代に対する攻撃が盛んになされていた1881年8月27日、五代自身が自己に対する攻撃を嘆く書翰を大隈に送っており、その文中では払下げ対象である岩内炭鉱に関して言及され、また五代の事業への大隈の協力の様子も記されており、少なくともこの両人のレベルで懸隔がなかったことが明らかになっている。このことは、大隈が、官有物の払下げを問題化させ自身の政治権力を高めようとした、とする教科書的理解が誤りであることを示唆する要素である。

つまり、「官有物を払い下げるに当たり、黒田と親しい五代の関西貿易社に不当に安い価格で払い下げようとして問題化した事件=開拓使官有物払下げ事件」という通説・教科書的理解そのものが誤りなのである。

右のような理解は、伊藤博文らが、当時の政情や新聞誤報から大隈に対して抱いていた一方的な見方であり、こうした一面的な見方を史実とするのは些か乱暴が過ぎる。

また背景には、大隈の出した憲法意見書をめぐって政府部内で対立が生じていたことや、「大隈の背後に福沢諭吉一派あり」とのデマを政府部内で吹聴して回った井上毅の暗躍などがあるのであるが、詳細は『明治史講義』に譲りたい。

真辺氏によると、現在早稲田大学には五代が大隈に送った一五八通もの書翰が残っており、両者の親しさを垣間見ることができるという。ただし、明治十四年政変以降のものは一通も残っておらず、新聞誤報に端を発する開拓使官有物払下げ問題の激化が、二人の関係に何らかの影響を及ぼした可能性がある。

新聞報道は、当時の人々の考えや事実関係を知ることのできる貴重な史料である。しかし、それらの報道をそのまま鵜呑みにすることが、かえって歴史の真実を歪めてしまう場合もある。これは、現代にも通ずるところがある。テレビや新聞の報道を鵜呑みにせず、何事にも批判的態度で臨むことが必要なのだと、そんなことを考えさせられた。

※本記事における歴史的叙述は、筆者が、自身の知見ならびに『明治史講義』『詳説 日本史B』などを基に記述したものであり、事実関係に誤り等があった場合、その全責任は筆者に帰属します。

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