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本当の意味で、私たちのための会話がしたい

この記事からの続きです。

「子どもが欲しいのか分からない」
そう悩んでいる女性と話したい。

子どもについて考え始めて数ヶ月。
その気持ちは単なる望みを超えて、焦りや渇望として心の底でぼこぼこと湧きたつようだった。


子どもを産むか否か。
その迷いは常に頭の片隅を占め、外出中だろうと入浴中だろうと、心は気まぐれに「で、子どもはどうするの?」と私へ問いかけた。

「どうしようね」

そう考え始めると、ついスマホに手が伸びてブログや質問サイトを読み漁る手が止まらない。

「子ども ほしい 分からない」
「子ども きっかけ」
「子ども 産まない 後悔」

検索しても答えがないのは百も承知。それでも自分と同じ悩みを抱える人をネットの海で必死に探した。

その人が妊娠に踏み切れない理由をじっくりと読み込む。
そもそも欲求がない。子育ての自信がない。親との関係から躊躇してしまう……。一つ一つにうなづいたり、なるほどと思わされる。
語られるストーリーは人それぞれだけれど、自分との共通点が見つかればそれだけで「産みたい」と思えない罪悪感が拭われるようだった。

ほら。この人だって悩んでいるじゃないか、と。

「子どもを持つきっかけが知りたい」というのは検索する言い訳で、実際に探しているのは免罪符だったのかもしれない。まだ迷ってもいい理由。子どもを欲しがれなくても許される理由。

本当はそんなもの無くたっていいのに。私は「子どもが欲しい」といえない自分のそのまま受け止めることができない。

そして、そんな心をえぐるように、批判的なコメントは刺さった。

「子どもが産めなくなってから後悔しても遅い」
「その歳になっても自分のことしか考えていない。幼稚だ」
「出産まで損得で考えるなんて、かわいそうな人」

これが、子どもを欲しがれない女性に対する本音か。
怒りとやりきれなさで心がぐちゃぐちゃなのに、コメントを読む手が止まらない。

はいはい。私は自分勝手で幼稚で冷たい女です。だから、子どもを望めなくてもしかたないですよね?

そう開き直れば少し心が楽になった。
自信満々に「子どもは私の人生にいらない」と言えるほど心が決まってるわけでもない。でも、石を投げつけられている間は産まない免罪符を手にしたような気がした。

一番つらいのは、出産した女性から「自分の子どもは可愛いから大丈夫」「考えすぎ」「とりあえず一人産んだら?」といった言葉が「励まし」として投げられることだった。

こんなの、人を崖っぷちに追い詰めて「いいから飛べ」「考えるな」と騒ぎ立てるようなものじゃないか。

「子どもが欲しい」と言えたら、もっと楽に生きれただろうか?
子どもを産んだ人には「どうして産んだの?」と聞かないのに、なぜ子どもがいない人には「どうして産まないの?」と聞くのだろうか。

なぜ勝手に「いつか産む人」として私を扱うのだろうか。子どもがいない人を「いない人」としてありのままに扱うことはそんなに難しいだろうか?

自分が納得できる選択をしたい。今は悩みたい。それだけなのに。なぜ悩むことすら「後悔」という言葉で脅され、否定されるのか?


私は、仲間が欲しかった。

悩むことを否定せず、産む・産まないのどちらにも誘導せず、納得感を大切にする。
本当の意味で、私たちのために会話できる仲間が欲しかった。

幸運なことに今はそんな友人(ナナ、しょーちゃん)が周りにいる。
仕事を通じて出会った私たちは皆アラサーで、専門職のキャリアを持ち、結婚しているが子どもを持つか迷っている女性たちだ。

そんな私たちの会話は、いつもあけすけで、真剣だ。

休日のファミレスでナナが話す。

「旦那に、子どもが欲しいかどうかを100点満点で表したら何点?って聞いてみたの。そしたら『50点。だからナナに任せるよ』って」

その話を聞いて、ええっと思ってしまった。

「ちょっと酷くない?その答えは、ナナに決める責任を押しつけてるだけじゃないの?」
「そうかな?女性の方がどうしても妊娠・出産の負担が大きいから、プレッシャーをかけたくないのかもよ」

なるほど、と思えるコメントをしてくれたのはしょーちゃんだ。

「うーん。でも実際『任せるよ』って言われても困っちゃうんだよね…。しんどくなった時に『お前が決めたんだろ』って言われたらどうしようって不安になる」
「それは絶対に言っちゃダメだよね」
「産んだらもう二人の決断だからさ。いざというときに自分のせいにされるのも、相手のせいにするの違うよ」

うーん、難しいねぇ。
こうやって3人で話しても、答えなんてやっぱり出ない。最後は夫婦の決断だ。
それでも、私はこういう時間がずっとずっと欲しかった。

「産む人」に加えて「産まない人」の話が聞ける機会も増えてきたが「産むか悩んでいる人」の話を聞く機会はまだ少ない。

話したいこと、いま話すから意味があることを、私たちはこうして山ほど抱えているのに。悩みを話す口すら塞がれたらどうしたらいいのだろうか。


私はナナやしょーちゃんと出会い、「産む」と決断できない自分を責めるのをやめた。その代わりにたくさん悩み、考えたことを外の世界に出してみようと決めた。この文章もその一部だ。

外に出すには、心の中で膨らんでいく不安を手に掴み「こんな形なんですけど……」と人に見せられる形にしなければいけない。
言葉にして発信する。そして、二人から発せられた言葉に対する自分の心もじっと見つめる。
そうして生まれる時間は驚きの連続だ。

ある時しょーちゃんが、子育てへの不安をこう話した。

「お腹の中で人間を育てて産むのはやってみたいけど、その後20年間も育てられる自信がないんだよね」

(えっ。産むのは大丈夫なの?)

心の中で驚きつつ、顔に出したら嫌かもなぁと思い「そうなんだ」と返す。
私は非常に勝手なことに、子どもを産むか迷っている人はみんな妊娠・出産も避けたいはずだと思い込んでいた。

育児は変化があって面白そうだけど、妊娠と出産は苦しいだけじゃないか。
あ、でも。泣き声から意図を汲み取ってお世話するのもしんどそう。会話がある程度できる状態で子どもが空から降ってきたらいいのに……。

内心つぶやいた瞬間、ふと気づく。

そうか。
私の「産みたくない」はひょっとして「妊娠・出産に伴う体調不良と痛みが嫌」「言語でコミュニケーションが取れない相手が怖い」なのでは?

もし、つわりを無くせる薬と100%無痛分娩ができる病院があるとしたら(ないだろうけど)、お酒や生ものを我慢する部分は頑張れるし、在宅の仕事だし、妊娠・出産は乗り切れるかもしれない。

そのとき妊娠・出産という大きくて得体のしれない恐怖に、初めて少しだけピントが合った気がした。
まだ全容は見えないが、輪郭がぼやぼやと見え始め、それだけで心なしか恐怖が薄まった。

これだ!


天啓のような「産みたい」はどうせ舞い降りない。
それでも産むことに前向きになりたいなら「産みたくない」という気持ちの塊に、少しずつノミを入れなければいけないのだ。

妊娠や出産の何が嫌なのか。何が怖いのか。子どものいる生活のために、何ならどこまで頑張れそうか。

自分の言葉で話し、二人の考えに触れながら、漠然とした「産みたくない」から余計な部分をぽろぽろと削ぎ落とすことができたら。
そのときに最後まで残る恐怖や不安はどんなものだろうか。見てやりたい。

気が済むまで悩んだときに残る塊は、夫婦では抱えきれない代物か。「子どもがいる」という幸せのために、それを背負って進んでみたいと言えるのか。

まだ分からないけれど、今は考えることを止めたくないと思い、こうして時々友人たちと話している。

そして、いつか私たちがそれぞれの決断をしたとき。
それが「産む」「産まない」どちらだったとしても、まず「私たち、真剣に決めたね。ここから楽しもうね」とお互いを褒め合いたいのだ。


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