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子どもが欲しい、という気持ちが欲しい

26歳の頃。1歳上の友人Aに子どもができた。
ワンピースをぽっこりと押し上げるその膨らみを、Aは手慣れた様子で、だけど丁寧になでる。

「まきは子ども欲しいの?」
「うーん、わかんない」

24歳で結婚してまだ2年目。私たち夫婦は子どもについて真剣に話し合っていなかった。

「わからないってことは欲しくないってことだよ。『欲しい!』って思わないうちは待ったほうがいいよ」

なるほど。そういうもんか。
保育士のAの言葉には妙に説得力があった。

『わからないってことは欲しくない』

その言葉は、決断の先延ばしを正当化するために非常に都合がよかった。


それから5年。わたしは30歳を迎えてもまだ子どもが欲しいのかわからない。
20代後半を心置きなく仕事に打ち込ませてくれたあの言葉が、今は身体と心の間でわたしを板挟みにする。

子どもが欲しいかわからない。そんなことを言っているあいだにも身体にはタイムリミットが迫る。
それならいつになったら「わかる」んだ?

30歳が近づけば「子どもが欲しい」という気持ちが勝手に生まれると思っていた。
目の前にパァッと道が開けるような感覚なのか、あるいは心の奥底からジワ〜〜と温かいものが湧いてきて満たされるような感覚なのか。いずれにせよ、これが正しい道だと信じて突き進めるような何かが訪れるんだと思っていた。

しかし現実はそんなに都合よくいかなかった。
気づいたら30歳で、すでに子どもを産むには黄色信号の身体を抱えながら5年前と同じように「どうしよう」を繰り返している。


「どちらかと言えば子どもが欲しい」
旦那がそう言ったとき、私は29歳で旦那は35歳だった。

子どもが、欲しい?

ほぼ毎週末通っている喫茶店で、わたし達はいつものようにモーニングのトーストとゆで卵を食べていたはずだったのに。

驚きと納得と恐怖と罪悪感と呆れをミキサーにかけたような、真っ黒でドロドロの気持ちが染み出した。


25歳で技術職に飛び込み、やっと一人前になり始めた仕事。
7000円くらいなら「買っちゃえ」と購入ボタンを押せる金銭的余裕。
Google Mapで気になる店があれば「昼食はここにしよう」と車を走らせる自由。
平日でもアジフライを揚げられる心のゆとり。

一緒にここまで作り上げてきた生活を、全部ぶっ飛ばしたいと言われたような気がした。


妊娠・出産って、子どもって、そんなにいいの?

お試し期間もない。「やっぱり無理」もできない。そんな条件で、人間性も分からない新メンバーを家庭に加えて、この先数十年を注ぐ決断をどうやってすればよいのだろうか。

この6年間で作り上げた生活を自らの手でリセットしたその先で、わたしは今より幸せになれるのか?


でも旦那は子どもが欲しいと言う。
合法的に(?)旦那を父親にできるのは自分だけだ。愛してるからこそ「わからないから産まない」を突きつけて、彼の望みを一生叶わないものにするのは避けたかった。

今は子育ての良さも、子どもがいることの幸せもまったくわからない。でもそれは、何も知らないからではないだろうか?


子どもについて、子育てについて、知りたい。
知った先に「色々あるだろうけど頑張ってみるか〜」と言えるくらいの希望があってほしい。

痛々しくて切実な、賭け。それは祈りでもあった。


子どもが欲しい、という気持ちが欲しい。



続きです


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