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ある歌人神官がみた明治

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物置から出てきた史料から、先祖は代々古い神社に仕えていたと判明。明治27年~明治33年に高祖父が詠んだ歌を紹介しつつ、ファミリーヒストリーを追っています。
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さくら・サクラ・桜/ある歌人神官がみた明治(14)

やっと桜の開花があちこちで聞かれるようになりました。葦の舎あるじの『随感録』から、桜ソングを一挙公開します。 明治28年 2首  いずれも、散る桜を惜しむ歌。まさに、「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)」だ。いつ咲くかと待ちわび、いつ見ごろになるかと気もそぞろ、もう散るかと惜しむ。散ってしまうとわかっているから満開の花を見ても寂しくなる。  ちなみに、葦の舎あるじの作歌には、ちょいちょい業平のこの歌の影響が伺えるが、孫娘にあたるタツは逆説っぽ

ある歌人神官がみたかもしれない大正

今回は小ネタです。葦の舎あるじの孫娘タツ、すなわち私の祖母が持っていた写真、撮影時期はいつで写っているのは誰なのか、考察してみました。答えは、はたして。先にいっておくと、わりと中途半端です。 証明写真サイズのちっさな写真  「ある歌人神官がみた明治」では、私の父方の高祖父(4代前の先祖)、“葦の舎あるじ”が書き残していた歌集『随感録』を読み解いている。  葦の舎あるじの戦前・戦後の写真を、私の祖母タツは何度か引っ越ししながらも、ずっと保管していたようだ。  当人は認知症

先祖の恋歌編、完結。永遠の愛をあの岩に誓うよ/ある歌人神官がみた明治(13)

恋に破れた明治29年。ふたりで写真撮りながらも別れゆく明治30年。國學院卒業にともない帰郷した明治31年、ついに葦の舎あるじはめぐりあう。 たとえば千年 千年じゃ足りないか?  「ある歌人神官がみた明治」(10)でもふれたとおり、帰郷してまもなく葦の舎あるじの歌には「わぎも子(吾妹子:恋人)」の姿が登場する。  何気ない花見のお誘いのような歌ながら、どこか華やぎ艶めいた気配がする。一緒にうちの庭の桜をみようよ、が口説き文句になるとは。逢いたい逢いたいしつこく詠んでいた2

Missing…言葉にできるなら少しはマシ/ある歌人神官がみた明治(12)

会いたくて会いたくて震えていた葦の舎あるじである。つのる想いとは裏腹に、彼に訪れた運命とは。 前回はこちら まるで織姫・牽牛みたいに逢えない二人だねって ボクは  前回から引き続き、逢いたいのに逢えない恋に、葦の舎あるじの心は乱れていた。  七夕に詠む歌も、あきらかに逢えない自分を仮託している。  明治29年の七夕。葦の舎あるじは帰郷中だったと思われる。おそらく東京にいる我が織姫を思い浮かべ、再会を待ちわびていたことだろう。  だが、9月になって彼が須磨で途中下車して

恋歌。「エモい」で済むなら31文字も要らない/ある歌人神官がみた明治(11)

明治29年は、葦の舎あるじにとって恋の年だった。のだと思う。恋歌が突出して多い。逢いたいのに逢えなくて、思いをつのらせる青年の歌だ。 思わないようにしようとすると、かえって忘れられない  明治29年に詠んだと思われる53首のうち、17首が恋歌である。明治30年は1首のみ、明治31年は64首中12首、33年に至っては1首もない。※『随感録』は32年の歌が存在しない。  怒涛の連作。逢いたい、逢いたい、逢えない。君のことばかり考えてしまう。どストレートに思いのたけがこもった

友達以上恋人未満は世を超えて。思わせぶりがすぎる/ある歌人神官がみた明治(10)

写真が好きだったのだろうか。葦の舎あるじは、しばしば自分の写真を人に渡したり、一緒に撮ったりする歌を詠んでいる。  明治30年前後の写真撮影料金がどれほどだったのか、残念ながら資料を持たない。安くはなかっただろう。  葦の舎あるじが写真を詠む初出は明治29年。「寫眞のうらに」と題している。 「わたし写真うつり超ブスだからぁ~」は、いつの時代も変わらない。この青年らしい自意識が好ましい。  明治30年にも、同様に写真の裏に書きつけたという歌が登場する。  明らかに、誰かに

先祖母の米寿祝を掘り下げていたら、幻のロープウェーにたどりついた/ある歌人神官がみた明治(9)

今回は特別編。明治ではなくて昭和の話題になってしまったので。「葦の舎あるじ」一族の貴重な集合写真からみえてきたものとは。 明治29年 帰郷を詠んだ2首  何度か述べてきたように、葦の舎あるじは5歳で父と死別。熊本の五高を経て明治28年ごろに上京し、國學院へ進んだ。明治29年、帰郷にあたり歌を詠んでいる。  明治の学生さんは、「いま実家」とチャットする感覚で和歌を送るのだろうか。42番も「実家戻ってるとこだけど、それよりも君のこと考えちゃうヨ」などと送る都の友人とは、いっ

先祖、紫式部を詠んでみた/ある歌人神官がみた明治(8)

今回は小ネタです。大河ドラマ「光る君へ」放送にあわせて。 歌集で唯一、取り上げられている歴史的人物  私歌集なのだから、自分の好きに詠んでいいとは思う。「葦の舎あるじ」はお気に入りのモチーフは習作を重ねていたのか、何度も取り上げてブラッシュアップしている様子がある。  たとえば第4回でとりあげた「砧」なんかは、明治27年に詠んだものとほぼ同じシチュエーションを、明治30年に改めて詠んでいる。  個人的な好みでいうと、最初の歌が実直な感じでいい。秋の夜長、砧打ちに疲れてふ

亡き父に捧げる挽歌/ある歌人神官がみた明治(7)

明治11年、数え5歳で父を亡くした葦の舎あるじ。神道の祖霊祭に則って明治30年に二十年祭を執り行った際の歌が残っている。 貌(かお)だに知らで 別れしこの身  葦の舎あるじの父は、おそらく宗像大社最後の学頭だった。  明治3年に学頭職を辞し、遠賀郡の中間小学校へ赴任。物置から出てきた略系譜だけで知れることは多くないが、『遠賀郡史』をひもとくと、中間小学校の初代学校長だったとわかった。  戦前の福岡県立図書館の郷土資料の目録の中には、彼が遺したなんらかの草稿、「見聞雑記」

梅は咲いたか、うぐいすゃまだかいな/ある歌人神官がみた明治(6)

鶯の初鳴きがそろそろ聞こえてきそうな時節、梅や鶯の歌を読み解いてみたい。葦の舎あるじは梅と鶯の組み合わせが好きだったようで、多くの歌を詠んでいる。  そういえば、上京した年には多摩川沿いの梅の名所に行こうとして迷子になっていたし。  その時の歌もふくめ、『随感録』には12首の梅の歌がある。桜や松の歌も多い。葦の舎あるじの庭には池があって、亡父が植えた松がその姿を映し、梅や桜も植わっていた様子が歌からうかがえる。 けっこう、古歌からの本歌取りが多い  16番はおそらく、

先祖の恋はタバコのflavorがした/ある歌人神官がみた明治(5)

葦の舎あるじは、喫煙者だったらしく、煙草を詠んだ歌がある。200首を超える歌集で4首のみなので、ヘビースモーカーというわけではなかったのかもしれない。ちなみに酒を詠んだ歌はない。 明治28年 煙草が焦げるように恋焦がれる心を見せたい  年代を追って順番に紹介する。  一首目は、小倉百人一首49番 「御垣守(みかきもり)衛士(ゑじ)の焚く火の夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ(大中臣能宣)」  の、これでもかという本歌取り。なお、『随感録』は恋を詠んだ歌が非常に多く

明治28年のお正月風景/ある歌人神官がみた明治(4)

 4代前の先祖「葦の舎あるじ」の歌集『随感録』は、おそらく明治27、28年から33年の間に詠まれたと推定できる225首が収められている。 明治28年 正月 のどけさは 都も鄙も変わらざりけり  詠んだ時期の記述がはっきりあるものは少ないが、およそ時系列に並んでいると考えていい。季節の移ろいに、ほとんど矛盾がない。  第4番の歌は「都にてはじめて年を迎へるおりによめり」という詞書がついている。  おそらく、國學院への進学で上京した際に詠んだのだろう。  この時期の作に「二

そろそろ、歌人の話/ある歌人神官がみた明治(3)

そろそろ、歌人の話  タツが保管していた古文書類は、実家解体で鎌倉の我が家に引き取った。ひとまずタイトルを拾って目録を作成してみると、80冊以上ある。  江戸時代に出版された国史、国学の類や和歌の注釈書、随筆など多岐にわたる内容だが、やはり宗像大社に関する文献が目立つ。  その中には田島のおじいさんに連なる一族の略系譜もあり、平安期まで遡れた。  一族は代々、宗像大社に奉祀する社僧の家系で、学頭とか座主とかいう職にあったことがわかった。略系譜に出てくる名前が署名された

ありふれた「実家じまい」より、伝聞多めの祖母の過去編/ある歌人神官がみた明治(2)

ありふれた「実家じまい」より、伝聞多めの祖母の過去編(2)  タツの母は引き揚げの苦労からか結核を患い、屋敷の離れで療養していたが、やがて他界。タツはそのまま祖父、祖母を支えながら暮らしていた。私たちに思い出話をする時、「田島のおじいさん、おばあさん」と呼んでいたことを覚えている。  田島のおじいさんは、亡くなる際にタツに屋敷を相続させた。これはタツの主張だから、真実はもはやわからない。おじいさんには息子(タツにとっては叔父)もいたが、神社とは異なる多忙な業種に務めており