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梅は咲いたか、うぐいすゃまだかいな/ある歌人神官がみた明治(6)

鶯の初鳴きがそろそろ聞こえてきそうな時節、梅や鶯の歌を読み解いてみたい。葦の舎あるじは梅と鶯の組み合わせが好きだったようで、多くの歌を詠んでいる。


 そういえば、上京した年には多摩川沿いの梅の名所に行こうとして迷子になっていたし。

 その時の歌もふくめ、『随感録』には12首の梅の歌がある。桜や松の歌も多い。葦の舎あるじの庭には池があって、亡父が植えた松がその姿を映し、梅や桜も植わっていた様子が歌からうかがえる。

けっこう、古歌からの本歌取りが多い

16番 待鶯
梅の花咲きそめにけりうぐひすは 谷の戸いでていつか来鳴かむ
24番 待鶯
かくばかり 匂ふものよとうぐひすは さしもしらでやここに来鳴かむ
25番 同
梅の花咲き出でにけりうぐひすは わが宿にしも来てを鳴かるる

『随感録』明治29年ごろ

 16番はおそらく、「古今和歌集」の

わが宿の池の藤波咲きにけり 山郭公(やまほととぎす)いつか来鳴かむ (夏 135)

 を念頭にしたものか。24番も百人一首51番

かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方朝臣)

 を想起させる。余談ながら、藤原実方は清少納言の恋人だったという説がある。
 三十六歌仙のひとりで光源氏のモデルのひとりともいわれている。大河ドラマには登場するのでしょうか。

月岡芳年『新形三十六怪撰 藤原実方の執心雀となるの図』
国立国会図書館デジタルコレクション

 こちらも明治29年ごろの作。

34番 鶯
春来ぬと告げる軒端の梅が枝に ききそめけりなうぐひすのこえ
38番 早梅
いつのまに ほころびにけむ梅の花 ふきくる風に花の香ぞする

  38番に鶯は登場しないものの、おだやかな春の景色にどこからか鶯の声が聞こえてきそうだ。葦の舎あるじの作風は『万葉集』と『古今和歌集』といった古歌の影響を感じる。
 ただそれは彼の個性というわけではなく、当時の主流かもしれない。門外漢なのであまりつっこんだ話はしないが、葦の舎あるじと同年代の和歌も似たような調子が多い。
 明治時代の、近代化・西洋化に向かう流れに逆らうように復古調を求めたのかもしれない。

明治30年 皇太后の崩御を悼む

 同じ「梅に鶯」のモチーフでも、こちらは悲しみを強調させるために「今年は鳴かないでおくれ」と詠う挽歌4首。

明治三十年一月十一日午後六時皇太后陛下のおかくれ給ひしを悲しみ奉りて

70番 
みそのふにほころびそめし梅の花 香をだにかくせ鶯やこむ
71番
み園生に来鳴くうぐひす心あらば 声をなたてそことしばかりは
72番
おくれじと雪の中よりみそのふに 君まちがほに梅はさきさり
73番
みやつこのまもれる庭の玉御きの きえさりましし君をしぞ思ふ

『随感録』明治30年

 「御園生(みそのう)」とは御苑、つまり帝の庭園を意味する。ここでいう皇太后陛下は、明治天皇の嫡母、英照皇太后のことを指している。

【英照皇太后(えいしょうこうたいごう)】
孝明天皇皇后九条尚忠の六女。名は夙子(あさこ)。弘化二年(一八四五)御息所となり、翌年天皇即位に伴い入内(じゅだい)。万延元年(一八六〇)明治天皇嫡母とされる。明治元年(一八六八)皇太后天保四~明治三〇年(一八三三‐九七)

コトバンク

 葦の舎あるじは、身近な人の訃報にも挽歌を寄せている。そのうちご紹介します。

明治31年 春の花といえば梅。まあ桜も好きだけど

121番 初春
さとがにも かすみたなびく 峰にをに花さきにほふ はるはきにけり
122番 春曙
朝の軒鳴くうぐひす声きけば ねざめ楽しきはる のあけぼの
149番 残鶯
わかばのみ しだれる宿の軒ちかく はるにわかれし うぐひすのなく

『随感録』明治31年

  花、といえば『万葉集』では梅、『古今和歌集』では桜のこと、みたいなざっくりした話がある。『随感録』ではどちらも同じくらい詠まれている。
 121番は梅とも桜ともいってないが、初春に「春が来た」と詠んでいるのだからこれは梅だろう。続く122番でも鶯が鳴いている。
 季節は夏に移っているのが149番。「ざんおう」と読むようです。ホトトギスが鳴くころになっても、うぐいすはしきりに鳴いている。

 歌とはあまり関係ないが、ホトトギスはうぐいすに托卵する習性があるので、うぐいすが多いところはホトトギスもよく繁殖する。
 ただ、ホトトギスは夏の渡り鳥だが、うぐいすは一年中日本にいる鳥だということは意外と知られていない気がする。ホーホケキョというさえずりは繁殖シーズンの縄張り宣言らしい。


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