亡き父に捧げる挽歌/ある歌人神官がみた明治(7)
明治11年、数え5歳で父を亡くした葦の舎あるじ。神道の祖霊祭に則って明治30年に二十年祭を執り行った際の歌が残っている。
貌(かお)だに知らで 別れしこの身
葦の舎あるじの父は、おそらく宗像大社最後の学頭だった。
明治3年に学頭職を辞し、遠賀郡の中間小学校へ赴任。物置から出てきた略系譜だけで知れることは多くないが、『遠賀郡史』をひもとくと、中間小学校の初代学校長だったとわかった。
戦前の福岡県立図書館の郷土資料の目録の中には、彼が遺したなんらかの草稿、「見聞雑記」「建学概則」、また、自身で編纂したらしい「名家詩文集」などの写しの存在がうかがえる。
図書館に問い合わせてみたが、残念ながら現在は所蔵されていない。空襲に遭っているので焼失した可能性があるという。ただ、「名家詩文集」だけはマイクロフィルムで残っているようだ。
彼らが暮らした宗像郡田島村から遠賀郡中間村は、かなり距離がある。父が赴任した明治6年は、葦の舎あるじの生まれ年でもある。おそらく、葦の舎あるじと母は田島村に残り、父は単身赴任で休みのたびに戻ってきていたのではないか。
だがやがて、父は体調を崩して退職。病床に伏して半年あまりでこの世を去ってしまった。葦の舎あるじは、父に関する記憶がほぼないまま、思慕を募らせていたのかもしれない。
亡父をしのぶ歌
明治30年、葦の舎あるじは「なき父のはたとせのみたままつりのをりに」という詞書で、5首の連作を『随感録』につづっている。
「はたとせのみたままつり」とは、神道の儀式。没後20年(没年はカウントしない)に執り行う祖霊祭で、「二十年祭」ともいう。仏式の法事でいうところの、十七回忌か二十三回忌あたりに相当すると考えていい。
葦の舎あるじは、たびたび庭の松を歌に詠んでいるが、それは亡父の手植えの松だったと歌からうかがえる。記憶にない父のおもかげを松に見ていたのかもしれない。
81番は、何か大それたこともなく、なんとなく月日が経つのは父のみたまが守っていくださっているからだろうという歌。
82番は、何を感じて「ひかげのみゆる大御代」と詠んだのだろう。葦の舎あるじは基本的に今上大好き、千代に八千代に万歳タイプの作風なのだが(彼に限らず、この時代はそんな空気)。
近代化、西洋化一辺倒の国の行方を案じたものか。
83番の「まさきくて」は「真幸くて」、つまり無事であったら、父が病など得ず今も元気でいてくれたら、どんなにか楽しい日々を過ごせているだろうか、という歌。
彼はこの年、國學院の卒業を控えていた。卒業後の身の振り方は固まっていなかったのではないか。國學院が神職養成機関になるのは、実はもう少し経ってからで、彼が学んでいたころは国学、国史、国法を学ぶ教育機関だった。
実際、彼が宗像大社に奉職するまでの間、5年の空白期間がある。
亡き父もまた、歌人であった
現物は残っていないが、『花籠』と題した歌集を亡父は編んでいたのだろう。成長し、歌も詠むようになった今なら一緒に歌を詠んだものを、という述懐。
実は、のちに田島の家を売り払う孫・太一(私の実の祖父)も、歌人の道を歩んだ。それはまたいつか別の機会に。
おまけ。当時の香椎宮と大宰府天満宮
「歌人神官がみた明治」の景色を知りたくて、明治時代の宗像を探しているがなかなかそのものズバリにたどりつかない。
かわりに、後年の彼が禰宜を務める香椎宮と大宰府天満宮の写真を紹介して今回の〆といたします。
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