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連載小説『ネアンデルタールの朝』⑫(第一部第3章-2)

2、
ラインの電話の着信音で民喜は目を覚ました。時計を見ると、午前10時を過ぎていた。慌てて眼鏡をかけてスマホを手に取る。
「あっ、もしもし」
「民喜、着いたぜ」
将人からだ。
「あっ、すまん。ちょっと待ってて。すぐ行く」
電話を切り、急いで起き上がる。今日は10時に将人が車で家まで迎えに来てくれることになっていた。9時に目覚ましをかけていたのに、寝過ごしてしまったようだ。
ふすまを開ける。ソファーに座って漫画を読んでいる咲喜と目が合う。
「おはよう」
咲喜は日曜日の今日も髪をきっちりと三つ編みにしていた。
「おはよう」
挨拶を返すと、
「お兄ちゃん、頭、ベートーベンみたい」
楽しそうな声で言った。
「マジか」
頭に手をやりながら洗面所に向かう。父はどこかに出かけているのか、姿が見当たらない。母は台所の方で掃除機をかけていた。
鏡を見てみると、髪の毛があちこちにうねって、まさにベートーベンのようだった。我ながらどうやって寝たらこういう髪型になるのだろう、と思う。
昨夜はよく眠れなかった。眠ったと思ったら、すぐに目が覚めてしまった。窓の外が薄明るくなった頃、ようやく民喜は眠りについた。
顔を洗い、素早く歯を磨く。頭に水を付けて寝ぐせを直そうとするが、なかなか直らない。面倒くさいので、キャップをかぶって誤魔化すことにしよう。
自分の寝室に戻ると民喜はカバンの中に「ネアンデルタールの朝」の絵をしのばせた。将人と駿にこの絵を見てもらうつもりだった。4年越しで、ようやく二人に「ネアンデルタールの朝」を見てもらえる――。そう思うと、心が高鳴った。

部屋を出て台所にいる母に声をかける。
「将人と駿と会ってくる」
母が台所から顔を出した。
「朝ごはんは?」
「いらない。もう将人が家の前で待ってるから」
「夜も一緒に食べてくるんだっけ?」
「うん。今日は遅くなる」
「気を付けてね。将人ちゃんと駿ちゃんによろしくね」
母と咲喜が玄関まで見送りに来た。
「いってらっしゃい」
という二人の声を背中で受けながら、急いで外に出る。
「行ってきまーす」
まだ午前中であるのに、外はすでに蒸し暑い。
ミーンミンミンミンミンミー……。
どこかの街路樹から賑やかなセミの声が聞こえてくる。
将人は家の前に駐車した青色の車にもたれかかりながら、スマホをいじっていた。昨年モデルチェンジされたばかりの最新型のデミオのようだった。青色の車体に太陽の光が眩しく反射している。
「お待たせ」
小走りで駆け寄ると、将人は顔を上げ、
「おう! 久しぶり」
ニコッと満面の笑みを浮かべた。
将人の人懐っこい笑顔を見て、ホッとした気持ちになる。将人は精悍な顔つきをしているが笑うと子どものような柔和な表情になる。
黄色のTシャツを着てブラックのジーンズをはいた将人は、顔も腕もよく日焼けしていた。髪は中学の頃からずっと同じで、短髪。陸上をやめた現在も体はがっしりとして、筋肉質だ。
将人は二重のぱっちりとした目を見開いて、
「民喜、さっき起きたべ」
と言った。
「よく分かったな」
「電話の声が寝起きの声だった」
「すまん」
笑いながら将人のデミオに乗り込む。今年の正月に会った時と比べて、将人は心なしか頬の辺りがふっくらとした気がする。車内に入ってみると、やはり新車の匂いがした。将人はエンジンをかけ、エアコンの冷房を最大にした。
「郡山からここまでどれくらいかかった?」
助手席のシートベルトを締めつつ、尋ねる。将人は原発事故以降、郡山で生活している。高校卒業後はそのまま、市内の会社に就職した。現在は営業の仕事を担当しているらしい。
「1時間ちょっとくらいかな。割とすぐだ」
「サンキュー、わざわざ」
「なんも」
将人は微笑み、
「駿は何時くらいから来れるって?」
「5時過ぎだって」
「了解」
駿は夕方まで用事があるということで、それまでは民喜と将人の二人で遊ぶことにしていた。
「駿とは夕方に郡山駅に待ち合わせでいいんだよな?」
「んだ」
「じゃ、それまでどこ行くべ?」
「うーん、どこ行くべ」
「とりあえず、郡山の方さ向かうか」
将人は車を発進させた。フロントガラスから見える空は真っ青だ。雲もほとんど見当たらない。

「この車、新車?」
民喜が尋ねると、
「まあねー」
とだけ将人は答え、
「東京の生活はどうだ? 彼女はできたか?」
明るい声で尋ね返してきた。将人は民喜と再会したときは決まって、挨拶代わりのように「彼女はできたか」と聞いてくる。
「いや、できてねえ」
「なんだ、まだできねえのか。大学には女の子たくさんいるだろうに。好きな人はいねえのか?」
「好きな人っていうか、気になる人は……いる」
民喜は明日香の顔を思い浮かべつつ言った。
「おー!」
将人のどんぐりのような目がさらに輝き始めるのが分かる。
「どこの子だ。同じ大学か」
「んだ、同じサークルの子」
「どんな子だ、可愛いか」
目を伏せて恥ずかしそうに笑う明日香の顔が浮かぶ。
「うん、まあ、可愛い……かも」
「何だべ、『かも』って」
将人はハンドルを握りながら嬉しそうに笑った。
「可愛いんだろ。分かってるぞ。可愛いんだろ!」
「……」
「写真あるか、スマホに」
「うん、まあ、ちょっとだけなら」
「後で見せてくり」
「うーん」
「見せてくり、見せてくり!」
将人はテンションが高くなるとよく分からない語尾をつける傾向がある。
「まあ、いいっちゃ……いいけども」
「何だよ、照れるなよー。別にいいべや!」
そう言って将人は顔をクシャクシャにして大声で笑った。寝起きの自分はまだちょっと将人のテンションにはついてゆけなかった。
将人はウインカーを出して左折しながら、 
「で、いつ告る予定?」
「え?」
「その子に、いつ告る予定?」
「いや、別に考えてねえけど」
「えーっ、考えてねえのか」
 将人はわざとらしくため息をついた。
「好きな人がいるのに、なして告らねえんだ?」
「うーん……」
民喜はしばらく考え込んで、
「いや、そもそも、告るっつう発想が湧いてこねえ」
「へえっ、マジか。俺には理解不能だ」
将人は大げさに首を振り、
「民喜も駿も、そんなんじゃ駄目だぞ。もっと人生楽しまねえと」
「いや別に。それなりに楽しいけども」
「いんや、彼女ができればもっと楽しくなるはずだ。駿もそうだっぺ。駿もずっと言ってんだよ、別に俺は彼女いらねえって。俺には本とゲームがあればいいって」
民喜も駿もこれまで女性と付き合った経験はなかった。女性と交際の経験があるのは将人だけだった。この点に関しては、将人は別世界の住人のように思える。
「駿、相変わらず休みの日はずっとゲームしてるらしいな」
民喜が応じると、
「んだ。もはや引きこもりだ」
将人は頷いた。
「大学には一応行ってるから引きこもりじゃねえんでないか」
反論してみる。将人は数秒考えた後、
「うーん、だな。じゃ、ひきこもりの一歩手前だ。ネトゲのやり過ぎで授業に出られないことも結構あるらしいぜ」
「授業に?」
「んだ」
「民喜はちゃんと全部授業出てるだろ」
「まあ、一応」
「民喜は真面目だからな。心配ないけども、近頃の駿はちょっと心配だな」
駿が最近大学を休んでしまうほどゲームにのめり込んでいるとは知らなかった。そういえば、先日ネットニュースでゲーム依存症について紹介されていた。駿はまだそこまで重症ではないと思うが……。まあ、駿は要領がいいから、授業を休んだとしても最終的にはちゃんと単位を取るだろう、と思う。高校の頃もそうだった。駿はまじめに授業を受けていないようでいて、テストの成績はいつもクラスで上位だった。
「将人こそどうなんだ? その後、彼女とはどうなの?」
「あっ、民喜に言ってなかったっけ。あの子とはもう別れた」
「えっ、いつ?」
「先月」
「なんだ」
「言ってなかったっけ」
「聞いてねえ。あれっ、その子とはどれくらい付き合ってた?」
「三か月くらいかな」
「短くねえか」
「そうか? みんなそんなもんじゃねえか」
「えー、そうかあ?」
「んだ。まあ、でもいま、狙ってる子がいるんだ。リンちゃんっていうんだけどな。先週、一緒に海にも行った」
「えっ、もう新しい子? 一緒に海にも行ったのか?」
将人はハンドルから左手を離して親指を立て、誇らしげな表情をしてみせた。
将人の真似をして、わざとらしくため息をついてみる。この領域に関しては、やはり将人は別世界の住人のようだった。

カバンからスマホを取り出そうとしたら、間違えてガイガーカウンターを取り出してしまった。中にずっと入れっぱなしにしてしまっていたらしい。さりげなくカバンに仕舞おうとすると、
「何だ、それ」
将人に見つかってしまった。仕方なく測定器を持ち上げ、
「ガイガーカウンター」
と答える。将人は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、
「なして?」
民喜は一瞬返答に窮し、
「いや、ちょっと、気になって……」
とだけ答えた。一昨日あの町を訪ねたことは、まだ将人にも駿にも言っていなかった。
「それ、民喜の?」
「んだ、ネットで買った」
「ふーん」
ガイガーを持っていることを将人に知られて、何故だか民喜は少々うろたえていた。
将人は黙ってしばらく前を見つめていたが、
「じゃあ、面白い場所があるから、一緒に行くっぺ」
民喜の方に顔を向けた。
「面白い場所?」
「んだ。ハハッ。とりあえず、ドライブついでに」

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