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連載小説『ネアンデルタールの朝』⑥(第一部第1章‐6)

6、
翌朝、目覚める直前に民喜は夢を見た。
初め、民喜は暗い森のような場所を歩いていた。足元には暗い雲のようなモヤモヤとしたものが立ち込めていた。民喜は不安な気持ちで先を急いでいた。
突然、明るい光が生じた。暗雲はすさまじい勢いでどこか後ろの方に退いてゆく。すると光の先に、あのネアンデルタール人の男性と女性と少女が現れた。
眩い光に包まれる中、三人は民喜を見つめて静かに微笑んでいた。彼らの微笑みを前にして、民喜の胸の内の不安は瞬く間に消え去っていた。
三人の黄金色の髪の毛が微かに揺れている。彼らの微笑みを見つめながら、
(ああ、あの三人は家族だったんだ)
と民喜は納得していた。
三人のいるところまで、ゆっくりと歩いてゆく。彼らの微笑みを前に、民喜の口元にも自然と笑みが浮かんでくる。
瞬間、ネアンデルタール人の女性の口元が微かに動いた。
・・・・・・善い
そう聴こえた気がした。
心の深みから、熱いものが込み上がってくる。民喜は思わず胸の上に手を置いた。
ネアンデルタール人の女性は、やはり微笑みながら民喜を見つめている。民喜の目から、ポロポロと涙が溢れてきた。……

微笑みと涙が混ぜ合わさる中、民喜は夢から覚めた。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝の光が夢の続きのように眩しく瞬いていた。
民喜は頬を伝う涙をぬぐい、上半身をベッドから起こした。そして夢の中でそうしていたように、自分の胸の上に手を置いた。
・・・・・・善い
夢の中で聴いた声は、なお心の内で鳴り響き続けている。
民喜はベッドから降りて、カーテンを全開にした。朝の光が一斉に差し込む。民喜は部屋の中をゆっくりと見回した。
机の上の筆箱も、マグカップも、漫画も教科書も、普段とは何か違っているように感じる。
目に映る物の一つひとつの輪郭線がくっきりとしている。そしてその輪郭線が何かキラキラとした光のようなものを放っているように感じた。
幸せな気持ちが胸いっぱいに湧き上がってくる。その幸福感の中で、民喜は自分という存在がいまここに、確かに存在していることを意識した。
自分はいま、ここにいる――
当たり前であるはずのその事実が、まるで大きな発見のように民喜の心を揺さぶった。
民喜は喜びのあまり部屋を飛び出て、階段を軽快に駆け下りて行った。リビングの方から、両親の話し声と咲喜の笑い声が聴こえてきた。母の煎れるコーヒーの香りが民喜の鼻をくすぐる。
「あら、民喜、今日は早起きね」
民喜に気づいた母が微笑みながら言った。
「朝ごはん食べる?」……

感動はその日、一日中民喜の心を揺さぶり続けた。
学校から戻った民喜はふと、今朝の夢を絵にしてみようと思い立った。
そうだ、絵にしてみよう!
そう思ったら、いてもたってもいられなくなり、すぐに家のパソコンを開いた。昨晩検索したネアンデルタール人の画像をプリントアウトするのだ。そしてこれらの画像を参考にして、今朝見た夢を描いてゆくのだ、と思う。

階段を駆け上がって2階の自分の部屋に戻る。戸棚の中からA4サイズの画用紙と24色の色鉛筆を取り出す。白い画用紙も色鉛筆も、いつもと違った存在感をもって机の上に佇んでいる。
まずは鉛筆で薄く、人物の下書きをする。真ん中にはネアンデルタール人の女の子、向かって右隣にネアンデルタール人の男性、左隣に女性を配置することにする。
民喜は普段クラブ活動では静物画や風景画を描くことが多く、人物を描くことには苦手意識があった。が、今日は思いの外スイスイと筆が進んでゆく。
夢で見た通り、男性はレスラーのようにがっしりとした体格にしよう。髭をたくわえ、精悍な顔つきをしているけれども目は優しい。上半身は裸、腰に毛皮を巻いている。
女性の上半身には柔らかな毛皮の衣を羽織らせる。まっすぐな髪は肩の辺りまで伸び、口は微かに開き、何かをしゃべり出しそうな具合にしよう。
真ん中に立つ女の子は胸の上で両手を重ねる姿で描いてみることにした。まるで何かを大切に携えているかのように……。
プリントアウトした画像を参照しつつ、どんどんネアンデルタール人の家族を描いてゆく。こんなに集中して絵を描くのは初めてのことかもしれない。
鉛筆の下書きが完成する。自分に向かって微笑むネアンデルタール人の家族の姿が画用紙の上に浮かび上がった。
民喜は頷いて、色鉛筆のセットを手元に置いた。いよいよ彩色だ。
まずは黄色とオレンジの色鉛筆を取り出す。これらの色を使って、髪の毛に色を塗ってゆくことにする。微かに揺れる黄金色の髪……。
塗りながら、民喜は胸の内が明るい予感のようなもので満たされてゆくのを感じた。
次に、茶色系の色鉛筆で、毛皮の色を塗ってゆく。薄茶色の、見るからに暖かそうな毛皮。陽だまりの芝生の匂いが漂ってきそうな、フワフワとした毛並みにしよう。
その次は、体。寒冷地に住んでいた影響で、色が薄かったと言われる肌。男性の肌の色は少しだけ濃い目に塗る。狩りに行っていて日焼けしているだろうから。女の子の小さな頬には、ポツンと朱色を滲ませておいた。
描きながら、あの(・・・・・・善い)という声が改めて胸の内に沁みわたってゆく。
最後に、青と群青の色鉛筆で目の色を入れる。今朝自分を見つめていた、青い瞳。湖のように青く澄んだ瞳……。
人物に色を塗り終えると、民喜は黄色やオレンジを使って、彼らの周りに柔らかな光の輪を描いていった。ネアンデルタール人の家族が眩い朝の光に包まれている様子を表現したかった。

2時間ほどで絵は描き終わった。棚に立てかけて、全体を眺めてみる。瞬間、絵の中に佇む彼らと目が合ったような気がした。
朝の光の中、三人は静かに微笑みながら、民喜の方を見つめている。女性の口元は、何かを自分に語りかけようとしている……。
ふと民喜の頭に、
ネアンデルタールの朝
という言葉が浮かんだ。
民喜はペンを手に取り、その言葉を絵のタイトルとして画用紙の右下に書き付けた。

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明日香から借りた谷川俊太郎の詩集を手に、民喜はしばらく放心したようになっていた。
次々とよみがえってくる記憶は驚くほど鮮明だった。つい昨日のことのように鮮やかに思い出される記憶。それは4年前、あの事故が起こる直前の2日間の記憶だった。
なぜ忘れてたんだろう。こんなに大切な記憶を……。
詩集をそっと床の上に置き、民喜は絵の中の女の子のように胸の上に両手を重ねた。
「あっ」
思わず声が出る。
そう言えば、あの絵を机の引き出しの中に入れっぱなしだった!
目を見開き、虚空を見つめる。
駿と将人に見せるのを楽しみにしつつ、引き出しの中にしまっていたのだった。でも次の日にあの震災と原発事故が起こって……。それどころではなくなってしまった。そうして自分自身、いつしか絵のことも、あの夢のことも、忘れてしまっていた。
なぜ思い出さなかったんだろう。こんなに大切な記憶を……。
「あの絵、取りにいかねえと」
民喜は独り呟いていた。
詩集を開いて、『かなしみ』を見つめる。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい ……

俺はあの町に、《おとし物》をしてきてしまっているのかもしれない。もしかしたら、《何かとんでもないおとし物》を――。
そう思うと、民喜はいてもたってもいられない気持ちになった。
夏休みになったら、あの町を訪ねるんだ。そうして、引き出しにしまったままの「ネアンデルタールの朝」を取り戻しに行くんだ。
民喜は胸の内で呟いた。その促しは民喜自身を戸惑わせるほど、強烈なものだった。
たとえ――。
たとえその途上で、辛い光景を目にしなくてはならないのだとしても……。

そして今日。民喜は4年ぶりに故郷の町を訪れている。


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