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連載小説『ネアンデルタールの朝』①(第一部第1章‐1)

第一部 あの青い空の波の音が聞えるあたりに

あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい(谷川俊太郎『かなしみ』より)

タイトル

2015年8月 福島

第1章

1、
そう言えば、桜がこの町のシンボルだった。
路上に車を停めた民喜はそう思った。
エンジンを切り、一呼吸置いてからドアを開ける。瞬間、モワッとした熱気と賑やかなセミの声が民喜の全身を包み込んだ。
遠くまでまっすぐに続く並木道を眺める。沿道に立ち並ぶ桜並木はいまは濃い緑の葉を茂らせている。
そう言えば、桜がこの町のシンボルだった――。
梢の方を見上げ、木漏れ日の眩さに目を細めながら民喜は再び胸の内で呟いた。ずいぶんと久しぶりにそのことを思い出したような気がした。
車をその場に残し、ゆっくりと並木道を歩き始める。
この区域には2.5キロの長さに渡って約1500本ものソメイヨシノが植えられている。桜の季節になるとたくさんの人がここに集まってきていたものだった。
脳裏に桜まつりの光景が浮かんでくる。
ずっと先まで続く、真っ白な「桜のトンネル」。その下を行き交う大勢の人たち。沿道の出店で買い物をしたり、家族で写真を撮ったり、人力車に乗ったり……。そうだ、自分たち家族も毎年欠かさずここに花見をしに来ていたのだ、と思う。
民喜は一本の木に近づき、そのゴツゴツとした樹皮にそっと手を当ててみた。樹齢は幾つくらいになるのだろう。特にこの木は周囲の木と比べて幹が太く、根もどっしりとしている。もしかしたら植えられて100年近く経っているかもしれない。
しばらく歩いていると、十字路に行きあたった。右折する方向の道には鉄製のバリケードが置かれている。バリケードの横には黄色の看板が立てられており、

 通行制限中
 この先
 帰還困難区域につき
 通行止め

青と赤色のよく目立つ字でそう記されていた。

看板②

強い不安を感じ、のど元がキュッと締め付けられるような感覚になる。
バリケードの向こう側にチラッと目を遣ってから、民喜はまた前方へと歩き出した。
あの日。

生活のすべてが一変したあの3月11日、民喜は高校1年生だった。
民喜の住む町は、福島の浜通りのほぼ真ん中にあった。町の中心部から北へ5~10キロのところに福島第一原子力発電所、南へ約5キロの位置に福島第二原子力発電所があった。
地震によって発生した津波は町の海岸部を破壊した。民喜たちの住む家は海岸から少し離れた丘陵部にあり、津波の直接的な被害は受けなかった。町の人々が津波の被害の対応に追われていた夜、福島第一原子力発電所では次々と深刻な事態が発生していた。
12日の朝、第一原発から半径10キロ圏内の町村に避難指示が出され、民喜の町の全住民は町から避難することを余儀なくされた。住民のほとんどは「2、3日すれば戻って来られる」という考えで避難所に向かった。けれども帰還の目途はまったく立たないまま、避難生活は長期化していった。4月22日には町は警戒区域に指定され、厳重な立ち入り制限が実施されるようになった。
民喜たち家族は郡山での数週間の避難所生活の後、親類の紹介により、いわき市の借り上げ住宅に移り住んだ。民喜はいわき市内の高校に通学することになり、親友の駿と将人とは離れ離れになった。
2013年3月末の避難区域の再編以降、民喜たちが住んでいた区域は国から居住制限区域と帰還困難区域に指定された。
 
100メートルほど先の路上に何かが置かれているのが目に留まる。
民喜は眼鏡をずり上げ、目を凝らした。人の背の高さほどの灰色の網目模様のようなものが見える。どうやらバリケードのようだった。
「えっ」
思わず声が出る。
距離が縮むほどに、前方で待ち構えているのは鉄製のバリケードに間違いがないことが分かってきた。
バリケードの前に到着する。眼鏡を取り、額の汗をぬぐう。バリケードの横にはやはり先ほどと同じ看板が立てられていた。

 この先
 帰還困難区域につき
 通行止め

民喜は後ろを振り返った。まだ自分はこの並木道を数百メートルほどしか歩いていないはずだった。ということは、この先2キロ以上もの区間が立ち入り禁止になってしまっていることになる。
ジジジジジジジ……。
無音になっていた外界が、再び音を取り戻し始める。1匹のセミがすぐ近くで鳴いている。
脳裏に浮かんでいた桜のトンネルと人々の笑顔が一瞬にして消え去る。頭から血の気が引いたようになり、体から力が抜けてゆく。
自分がいま目にしているもの、これは本当に現実なのだろうか?
民喜はぼんやりと鉄格子の向こうに続く並木道を見つめた。
向こう側の世界が自分からプツリと切り離され、ゆっくりと遠ざかってゆくように感じる。そうして何もなくなった空間には薄暗い闇が広がってゆく。
のど元がまた締め付けられたようになってくる。胃の中も重苦しい。自分がどこか間違った世界に入り込んでしまったのではないか、と思う。
一瞬、既視感のような感覚が民喜を捉えた。このような感覚を自分は以前にも経験したような気がした――が、それがいつのことだったかは思い出せない。
何だかひどく気怠くなってくる。意識がぼんやりとして、明晰さがなくなってゆく。
気怠さに襲われる中で、民喜は懸命に彼女の存在を思い起こそうとしていた。
永井明日香さん――
ぱっちりとした切れ長の目。色の薄い肌とほんのり赤く染まった頬。少し伏し目がちに恥ずかしそうにして笑う、あの独特な笑い方。笑うと唇の隙間からチラッと可愛らしい八重歯が覗く。
胸の方まで伸びる、黒い髪。そして、柔らかなあの歌声。透明感のある美しいアルトの声……。
目を瞑り、彼女のことを思い出していると、わずかに心が落ち着きを取り戻し始めた。
すると民喜の脳裏に、満開の桜を背に『朝』を歌う明日香の姿が浮かんできた。民喜はハッとして目を開けた。すぐ耳元で彼女のあの歌声がよみがえってくる。

また朝が来てぼくは生きていた ……



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