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プルースト効果、ただの物への思い出

匂いを嗅ぐことで、過去の懐かしい記憶や当時の感情がよみがえる現象を「プルースト効果(プルースト現象)」と言うらしい。言わずもがなだが、かの有名なフランスの作家、マルセル・プルーストの名著「失われた時を求めて」に由来している。香りの刺激が脳の嗅覚野に入った瞬間に、情緒を伴った記憶が無意識に呼び起こされるのだという。

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思ってもみない場所で、その香りを嗅いでしまった。あ、この香りおぼえてる。おぼえてるどころじゃない、すごく好きだった。たぶん、一時期、毎日つけてた。なんだったっけ。甘いのに甘すぎなくて、爽やかだけど寒い季節も似合って、嫌味がないのにちゃんと主張できるような、そんな香り。すごく好きだった。トップがなんとかで、ミドルがこれこれで、みたいな詳しいことは特に把握せずにつけていたけど、ああ、これって薔薇の香りだな。ほんのり感じる薔薇の香り。すごく好きだった。あと、たぶん何かの花の香り。ユリみたいな涼やかな花の香りがする。ユリ? 違った、いま調べたらフリージアとジャスミンだった。フリージアとジャスミン…単体での香りがいまいち思い出せないけど、この香りは華やかすぎず、緑っぽすぎず、幼さすら感じさせる。「花の石鹸みたいな香り」っていうレビューもある。ちょっとわかる気がする。すごく好きだった。すごく好きだった。

Forever and ever Dior  eau de toilette

Diorのトワレ。
そうか、この軽さと柔らかさはトワレだったんだ。ただ気に入っていたからあんまり考えず使っていた。自分で選ぶなら、たいていしっかり長く香るパルファムのほうを好みがち。そんなに詳しくなくても、香りが時間とともに変化していくさまを感じるのは好きだ。寝る前につけた香りは、翌朝、お色直しをしたみたいに変化していておもしろい。
でもこのDiorはわりとすぐに消えてしまう。体温や体臭と混ざって複雑になんかなったりしない。なのに、この単純な香水が、かつてわたしの手元にはふたつあった。

これは件の彼からもらった香水である。
つきあい始めてすぐの誕生日にもらった。よくある、様々なブランドやメーカーの香水が一緒くたに売られている店で選んで、買ってくれたらしい。
「この香りがいちばん気に入ったんだ」
ほら早く包みを開けてみて、と言わんばかりの顔で、ささやかなケーキとともに誕生日の晩、渡してくれた。彼は香水なんて疎いから、きっと店員さんにおすすめされたものを犬のようにくんくん嗅いで決めたのだろう。ふたつみっつと嗅いでいるうちにどれがどれだか区別がつかなくなりながら、ボトルのかわいさとか値段とか、店員さんのプッシュ具合とかを総合してこれに決めたのかな、なんて想像した。
「いい香り」
スプレーした腕をふたりで嗅いだ。毎日つけてた。すごく好きだった。


それから一年後だったか二年後だったかのわたしの誕生日。彼はあるプレゼントを用意してくれていた。
「この香りがいちばん気に入ったんだ」わたしの顔を覗き込むようにして彼は言い、小さな紙袋を渡してくれた。
「おっ」
紙袋の中には見覚えのある箱が入っていた。Forever and ever Dior  eau de toilette…これ、前にももらって、毎日のようにつけていたやつ!
「これ、覚えててくれたの?」
「ん?」
「前にもくれたよね、Diorのこれ」
「ん?」
「…んん?」
彼は、去年か一昨年にわたしにそれを選んでくれていたことを忘れていたのだった。どこまで記憶にあったのかはわからないが…おそらく、様々なブランドやメーカーの香水が一緒くたに売られている店へ行って、店員さんにおすすめされたものを犬のようにくんくん嗅いで、どれがどれだか区別があやしくなりながら、何かを決め手にして買ったのだろう。
「…同じもの贈ってた?」
「うん」
「めっちゃいい香りだよね」
「うん」
「おれの好みブレてないね」
「そういうことだね」

以前にプレゼントしたら喜んでくれたから、という理由で選んでくれたのならそれはもちろん嬉しい。けれど、「数ある中からそのときいちばん気に入ったもの」を選んでくれたのも、嬉しい。たとえ「あれ? 前にも買わなかったっけ?」と微塵も思い出してくれなくても。
それにしても同じもの。おそらく選択肢は相当にあっただろうに、彼の香りの好みで同じものを選んだのなら、たしかに好みはブレていない。

というわけで、同じボトルが二本、並んだのだった。
彼とは終わったけど、香りにも物にも罪はない。ひとつはいまも手元に、ひとつはかつて一緒に住んでいた家に置いてきた。片割れはどうなったんだろう。わたしにプレゼントしたもの、という記憶はあるのかな。どうなんだろう。ま、どうでもいいけど。

余計だけどね、
ちらっとアットコスメの商品説明見たら、
ピンクのボトルに秘めた、永遠の愛を 約束する香り フォーエヴァー アンド エヴァー ディオール
ですって。ふふ。ここは笑っとく。

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