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不安とは、敵か味方か

最近のわたしのキーワードは「不安」だった。他人から言われたことで、わたし自身が気づいたわけではない。いや、思い返せば日記やこのnoteにもちょくちょく「不安」という言葉を書き連ねていた。

でも、わたしにとって「不安」はあまりに身近な、慣れ親しんだ存在だと認識していた。
不安という感情を明確に意識したのは、小学生の頃、モンゴメリの名作「赤毛のアン」を読んだときのことだったと思う。たしか、物語の中のエピソードに、アンが「期待しないこと」について語る場面がある。何か心待ちにしているような出来事を前にしたとき、アンはそれに対して努めて期待しないように自分に言い聞かせる。「期待しないでいれば、少なくともがっかりしないから」というようなことを言っていたと思う。いまとなっては本が手元になく、すぐに確かめられない。

うまくいくわけがない、楽しいことが待っているはずがない、と言い聞かせることは、本当にうまくいかなかった経験や、楽しいことが待ち受けていなかった経験から身につけた自己防衛だ。きっとアンはわかっている。いつもいつもそうではないということを。「きっと次もうまくいくわけないんだわ」と語りながら、内心ではわずかな期待を抱えている。次こそは、本当にうまくいくかもしれない。楽しいことが待っているかも。でも、そうではないと言い聞かせる。そして本当にうまくいったとき、楽しいことが待っていたとき、喜びはひとしおとなる。まるで意に反している、といわんばかりの喜び。期待していなかったからわたしに幸運が訪れた、という「禁止令を守った代替的なご褒美」という感覚もあるのかもしれない。

そうか、と深く感じ入ったのを覚えている。期待しないでいよう、わたしも。小学生の頃、わたしが「赤毛のアン」に傾倒していたと表現できるほど好きだったのは、この、アンのどことなくペシミズムが漂う性格に共感したからだと思う。よく考えれば、アンは「不幸な境遇」の子どもで、さまざまな場所で苦労を強いられてきた過去を背負っている。時代も違えば国も違う、物語の登場人物だというある種の線引きができていたから、わたしは感情過多にならずに読めたのかもしれない。都合のよいところにだけ、深く感情移入するにとどまって。あるいは、小学生の頃のわたしは、ひょっとするといまよりずっと感情の境界が引けていたのかも。

そうか、期待しないでいよう。おそらく、このアンから得た強い衝撃みたいなものが形を変え、いまの不安へと変化したのではないかと感じる。アンが、うまくいくことや楽しいことをより一層強く感じられるように「期待しない」と言い聞かせたように、「安心」をより強く自分のものにできるように「不安」をそばに置いている、という感覚。わたしは、本当は安心がほしい。人よりずっと。その安心は強く感じていたい。そうか、不安はわたしの自己防衛なのかもしれないな。傷つくことを怖れ自分を守るために、あんまりわかりやすい手段ではないし、感じる本人(わたし)もつらいから、それが手段として適切なのかはわからないけれど。生まれ持った性格や気質や、環境や出会った人間や、もろもろの複雑な要因が重なって、少なくともいまはこのような方法を取っている。これからもこの手段を使い続けるかどうかはわからない。正直なところ、変化するのかな、と感じている。こうやって内省することで岐路に立たされた感覚がある。

☆☆☆

不安について書いてみよう」と思いたったきょうの昼頃、なんとなく考えていたタイトルは「不安という見えない敵」というものだった。小一時間前、タイトル部分にそのように入力してから本文を書き始めた。しかし、書き進めていくうちに、不安はわたしにとって敵ではないのでは、と思いが変化した。そしてタイトルを変えた。

わたしにとって不安は味方です、とは度胸がなく言いきれないけれど。敵のような不安も、味方のような不安も混在している。どちらも悪くない。ただそこに在ることから始めることにする。


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