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映画監督にして、カーマニアとしての矜持=クロード・ルルーシュと阿川佐和子さんの対談と、アナザーストーリーズ

週刊文春、11月30日号の記事を拝読しました。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1709186879581246&id=100014698508441

阿川佐和子さんの名物記事「あの人に会いたい」、今回はクロード・ルルーシュとの対談でしたね。


ちょうど、過日、「フランシス・レイ追悼コンサート」で来日した際のタイミングで行われた、貴重なインタビュー記事でしたね。

https://bunshun.jp/denshiban/articles/b7394


事前に、いろいろと背景となる情報を得ていて、私なりに考察を重ねていたので、

この対談で語られた話の真意と、そして「真相」=その意味では、彼の名言とされた「死はこの世の最高の発明ではないか。なぜなら、後になって不満を言いに来た人がまだ誰もいないから(笑)。」には、もう1つ「死人に口なし」も含まれていますね(笑)=をかなり理解しながら、大変興味深く読むことができました。

この場合の“死人”に該当するのは、

温厚な人柄で、ほとんど自己主張もしなかった無欲な芸術家&職人タイプのフランシス・レイであっただろうし、

そしてもう一人、クロード・ルルーシュが、『男と女』という、製作当初は“インディーズ作品”に過ぎなかった映画が、やがてカンヌ国際映画祭でパルムドールの栄冠を獲得することによって世に出ることを可能にするのに多大な貢献をした、ピエール・バルーであったといえますね。

※※※

この対談で、クロード・ルルーシュは、“男と女”シリーズ“第3作”にして、最終作(盟友で音楽監督だったフランシス・レイが撮影直後に亡くなり、主演の1人だったジャン=ルイ・トランティニャンもその後亡くなったので、これ以上の作品を製作することはもはやできないでしょうし、クロード監督としても、これでやり切った感があるでしょうね)となった『男と女最終章〜人生最良の日々』の劇中では、

早朝のパリの街中を、猛スピードで、赤信号に構わず愛する人に会うためにクルマをぶっ飛ばすシーンが、車載カメラの主観目線の長回しノンストップで撮影されていますが、やはり、あれは、無類のカーマニア、いや、“カーキチGUY”クロード・ルルーシュ監督自身が、(無許可で)撮影したものだそうで、我が意を得たりという心地がしました。

曰く、あの撮影で、誰もケガ人も出なかったのだから、自己責任の結果として満足したシーンが撮れたとご満悦なご様子でしたね。

それで思い出したのが、“無頼派”ユダヤ系ドイツ人カメラマン、そして撮影監督で名高いヘルムート・ニュートンで、彼はクロードに負けず劣らずのカーマニアだったのですが、最期は、高齢者であったのにもかかわらず、愛車を街中で猛スピードでぶっ飛ばしていた時に、道路脇に美女が歩いている姿に見とれて脇見運転の末に自損事故を起こしてあの世に逝ってしまったそうで、そういう人生も本望なのかもしれませんね。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid02XmKEh9TXSYEhRzErgveVz8tLahKpSmyyau4CRVXhTsQRSGQjBaozFcseGkoQgDrJl&id=100000591726100

『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』

イノベーティブなスピリッツ溢れるドキュメンタリー映画でした♪

無難で、世間一般に簡単に受け入れられる発想ではイノベーションは起こせません。

何これ?
大丈夫?
バカにしてるのか?

というような、世の中の常識を乗り越えて、それが、最終的にはデファクトスタンダードとして認められるぐらいのインパクトがなければ、イノベーションは到底起こせないことを痛感させられました。

一方で、彼に撮られた、あるいは撮らせた側の12人の女性たちへのインタビューと、代表的なヘルムートと彼女たちとの“共同作品”が紹介されていましたが、これによって、彼女たちの生き様や信条までもが深く掘り下げられていたのが印象に残りました。

また、彼の出自が描かれ、ドイツ(旧・ヴァイマル共和国)の首都ベルリン生まれで、父はユダヤ人のボタン製造工場経営者という裕福な家庭で育ち、

ハインリヒ・フォン・トライチュケ・ギムナジウムとベルリンのアメリカンスクールで学び、青年時代から写真に興味を持ちファッション業界で“イヴァ”という作家名で知られていたドイツの写真家エルゼ・ジーモンのもとで働き、師匠の弟子として撮影の基礎を叩き込まれるが、やがてナチズムがドイツ全土を席巻して、ユダヤ人だった彼女も強制収容所に連行されて、やがて死亡が伝えられる。

自身もユダヤ人であったが、裕福な家庭だったので、ある程度は自由に活動できたものの、次第に生き苦しさを強く感じるようになったヘルムートだったのだが、一方で、ナチズムの“宣伝大使”とも揶揄された、映像監督レニ・リーフェンシュタールの、ナチズムを礼賛する際に用いられた、ドイツ民族、特にアーリア人種の男性の肉体美を礼賛する『民族の祭典』で結実されたとされる映像技法に惹かれ、それが、後年の、彼の女性の肉体美=ヌード撮影に多大な影響を与えたと、この映画では主張していました。

カメラマンとしてのキャリアをスタートさせるにあたり、イヴァとレニという二人の女性が、彼のその後の表現者としての人生に多大な影響を与えたと見て間違いないでしょうね。

映画は、彼と、彼を取り巻く12人の女性へのかなり突っ込んだインタビューとともに、彼の撮影した写真を、世間を騒がせたヌード写真をも含めて、非常に鮮明な画像としても紹介していました。

ある意味この映画は、写真という、その一瞬を静止画として切り撮る絵画的芸術と、映画という、断続的なシークエンスによって、映画が発明される前までは不可能とされていた時空を記録する映像芸術の、誠に稀有に近い、幸福なマリアージュの作品であったと言えるでしょう。

一方、ピエール・バルーは、1980年代に来日して、加藤和彦や高橋幸宏、坂本龍一など、当時の日本の新進気鋭のミュージシャンたちとコラボレーションを繰り広げたことがあり、その時にステージ通訳を務めた、フランス語に堪能な潮田敦子さんを見初めた後に結婚してアツコ・バルーとなり、やがて夫婦として二人三脚で「サラヴァ活動」を50年以上にわたってずっと継続して、晩年にはフランスから日本に移り住み、そこで、彼は波乱万丈の生涯を終えることになったのでした。

最晩年、2016年に、ピエール・バルーとアツコ・バルー夫妻に、「ほぼ日刊イトイ新聞」の奥野氏が、短期集中でインタビューした貴重な7回連載の記事を読むと、コトの真相が一筋縄ではいかなかったことを知ることができると思います。

そして、1980年代の日本での音楽活動の記録が今年になって発見されて、ライブアルバムとして発売されたのですが、CDとともに、ハイレゾオーディオでも配信されたので、私もそれを購入して、往時を偲ぶその活動を追体験できたのは、大変意義深いものがありましたね。

立川直樹プロデュース ”ピエール・バルー『 ル・ポレン(花粉)』~伝説のライヴ1982” CD/DSD発売記念

【オノ セイゲン&晴豆 presents 11MHz DSD/Nu 1 試聴体験会 Vol.7】

[出演] 立川直樹 / 吉永多賀士 / 松山晋也 / オノ セイゲン

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