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vol.2 自分にやさしくすると、他者にやさしくなれないのはなぜ?〜やさしさを育むために必要な「4つのちから」~

本題に入る前に、執筆の意図や方向性、コンセプト記事をご覧くださいますと、より内容をお楽しみいただけるかと思います。

※以前に当記事の内容をご覧くださった方々へ
こちらのシリーズは、以前にアップしていた「やさしさを育むために必要な 4つのちから」とほぼ同じ内容ですが、読みやすさを考慮して分割したものになります。最終的にまとめ編として、以前の記事をそのまま再投稿する予定です。

第1回の記事はこちら▼


前回までのまとめ

前回の記事では、私なりのやさしさの定義を共有し、その核となるものが「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」であるとお伝えしました。

しかしながら、現代は「自己犠牲」という言葉そのものに抵抗感があるかたが多い印象で、極端な場合ですと、意識的にも無意識的にも「自分が大事だから、他者のことは知らない」という考えにシフトしていないだろうか?と懸念しています。だからこそ、改めて「他者理解」の大切さを訴えかけたいと思いました。

今回は、「どうして、自分にやさしくすることと他者にやさしくすることが、共生しづらくなるのか?」について深掘りするところからスタートしたいと思います。

自己防衛本能がもたらす弊害

なぜ、他者に対して理解の目を向けることが難しくなっているのか?について考えてみると、環境的な要因が大きいように感じます。「強くたくましくあらねば生きづらいから」という理由が、そこにはあるような気がします。
(ここでの「たくましさ」とは、根っこがパワフルというよりも、「強く振舞わねばならない」という意味合いで解釈してください)

ではなぜ、わざわざ強く振舞わねばならないのでしょう。
想像に過ぎませんが、おそらく、人の気持ちを一生懸命に考え、自分に出来ることを一生懸命に行ったとしても、その善意が都合の良いように扱われてしまう現実があるからではないでしょうか。
そのため、イヤなことを押し込まれる前に押し込んでしまえばいいと思ってしまう人が現れたり、人のことなんて放っておけばいいという悲しい考えが生まれてしまったような気がします。

実際に私自身の経験でも、あえて強く振舞っていないことで理不尽な要求をされたり、無理を押し込まれることも多々ありました。もちろん、すすんで「聴く耳」を持ってくれるかたや寄り添ってくれるかたもいますが、オフィシャルなシーンでは特に、独特の緊張感を感じながら過ごすことも少なくありませんでした。そのため、なんとなくですが、わかる気がするのです。
強く振舞うことは、自分を守るためのひとつの手段なのかもしれません。

しかし、ここで踏みとどまる必要性を感じます。
なぜわざわざ、しんどいものを基準にせねばならないのでしょうか。

大きなものに合わせて自分の形を変えた方が、ある意味、楽なことがあるのかもしれません。そういった生き方を選ぶのも、ひとつです。でも、「しんどい状況をつくらざるを得ないもの」に合わせている人が多いうちは、「本当は望ましくないしんどい環境」をつくり出してしまうことになりかねません。

これでは心から笑って、安心して暮らせません。
だから、心がポカポカするようなやさしさを育みたいのです。

仮面のたくましさは「攻撃性」、芯の強さは「理解の姿勢」

「『人にやさしく』したいだけ、『人にやさしく』されたいだけ」

他者とやさしい関係性を築くために「ふつうに」行動に移していることが、結果的に、自己犠牲と呼ばれる状態になっているような気がしてなりません。つまり、「身を守るためには強気に振舞わねばならない」という価値観が存在していることで、おのずと自己犠牲が生まれやすくなっているのではないか?と感じているのです。「過剰な」自己犠牲は、一部に負担が集中した結果起こるものではないでしょうか。

ところで、今回のお話で登場する「自己犠牲」の意味は、時に自分よりも他者を優先する「思いやり」とも表現できるかと思います。言葉が極端に感じられるようでしたら、このようにお受け取りください。
(「建設的で意図的な」という部分に思いやりのポイントがあり、まだまだ言葉足らずなことがあるように思いますが、ここで「自己犠牲」についての考えを説明すると話の大枠から逸れてしまいますので、詳細は別の機会に執筆する予定です)

こういった経緯で、自然な自己犠牲という名の「やさしい思いやり」を、自然なかたちで贈り合える環境をつくりたいと思うようになりました。

そのためにはまず、やさしさの存在に気づくことが必要ですし、ゆっくりでも確実に育んでいくことが大切です。加えて、「本当はやさしくありたいのに、様々な事情から辛く当たってしまう人」を理解するための、建設的で意図的な自己犠牲が求められているように感じます。

では、何があれば、何をすれば、やさしさの種を見つけ、見守り育てることができるのでしょうか。「建設的で意図的な自己犠牲」の正体について、考えていきたいと思います。

本来の希望に目を向ける「安心感を得るために必要な4ステップ」

ここからは、いよいよ具体的なお話に移りたいと思います。

タイトルの「4つのちから」とは、やさしさを育むために必要な「忍耐力・想像力・洞察力・包容力」を表しており、これらを身に着けるためには、コツコツと段階を踏むことが必要であると考えています。
詳細はホームページにも記載がありますので、興味のあるかたはこちらをご覧ください。

忍耐力は「ぐっとこらえて想像するための空間を作り出す」ために。
想像力は「あらゆる可能性を探索して出来事や感情を立体的に捉える」ために。
洞察力は「たくさんの仮説を検証して客観性のある真実を見つける」ために。
包容力は「磨かれた経験を自他とものためにやさしく使う」ために。

「やさしさとは、想像力である」というのは、どこからともなく耳にすることも多いのではないでしょうか。つまりは私もそういったことが言いたいのですが、ここで大事なのは「それができたら苦労していない」という現実があるということなのです。

やさしくありたいけれども、やさしくなれない「事情」がある。想像したいけれども、想像するだけの余裕がない「事情」がある。

ここをスルーして、あれやこれやと理想論を語ってしまうと、単なる綺麗ごとを言っていると思われても不思議ではありません。「言うのは簡単」なのです。いくら大切なお話をしたくても、ベースがなければ積みあがっていきません。

だから、次回以降の記事では、この部分をできるだけ丁寧に紐解きながら、ちょっとでも「なるほどな」と思えるようなお話がしたいと思っています。気になるかたは、ぜひご覧になってくださいね。


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