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「五戒」の「心配すな」について(2)

レイキの「五戒」の本文にある5つの戒めの2つ目、「心配す(る)な」についての続きです。
心配すること、つまり不安になることは、怒ることに次いで心身によくない精神活動です。
これをするなということが「五戒」の最初に来ていることは、この「五戒」がいかに的を射ていて、素晴らしいものかということがわかります。

心配するのが良いこともある

「怒り」のところで、抑圧されない「怒り」そのものは悪いものではないということを書きました。
それと同じことが、この「心配」についても言えます。

では、良い「心配」とは何でしょうか?
それは、事前に危険を察知して、それを回避することに使う「心配」です。

たとえば、「オレオレ、今お金がなくてさぁ・・・」という電話がかかってきたとき、「心配」する気持ちが起こりませんか?
「ひょっとしたら、オレオレ詐欺じゃないかしら?」
そう思うからこそ、その真偽を確かめようとします。
しかし、そんな不安も感じずに信じ込んでしまえば、いとも簡単に騙されてしまうでしょう。

したがって、「心配する」ということが、ただちに良くないことではないのです。
「怒り」も、怒ることがただちに良くないことではありません。
そのエネルギーによって、「それは私がやるべきことじゃない」と「ノー」を言うことができる。
それも「怒り」のエネルギーがあってこそ、できることでしたね。
同じように、「心配する」という感情があるからこそ、用心を重ねることができるのです。

やみくもに心配しない

では、「五戒」が言っている「心配す(る)な」とは、どういうことでしょうか?
それはまず、やみくもに心配することをやめ、論理的に考えましょう、ということだと思います。
また、ある程度の心配をして対処したのであれば、それ以上の心配は無意味ですよということかと思います。

論理的、科学的に心配できない人は、いつまでも心配し続けます。
「いや、なにがあるかわからないから。」
たしかに、そう言えます。しかし、そういう観点からすると、人生そのものが不安ということになるではありませんか?

科学的(統計学的)には、原発による死者はほとんどおらず、発電量あたりの死者という比較をすると、圧倒的に少ないです。
その一方で、火力発電による死者、特に石炭火力による死者は、圧倒的に多いです。(知らない人はWHOの資料をググって見てくださいね。)
それなのに、原発は廃止しようとするけど、火力発電を廃止しようとはしません。
こういうのが、論理的(科学的)でない不安(恐れ)です。

確率的にどれだけあるかわからない原発事故を恐れ、その一方で、確実に起こるとされている東南海地震を恐れない。
これなども、論理的(科学的)ではないと言えるでしょう。

「でも、もし起こった時の災害規模が違うから。」
そういうのは、科学がわかっていない証拠です。
リスクというのは、「災害規模×発生確率」で計算されます。
もし、災害規模が大きいことが問題なら、そもそも地球になんか住んでいられません。
だって、いつなんどき大きな隕石が落下し、恐竜絶滅のような悲劇があるかもしれないのですから。
富士山の噴火はいつか確実に起こるとされているのに、どうしてその周りに家を建てるのです? おかしいでしょ?

そういことを少しでも論理的に考えれば、むやみに不安に陥る必要はないと思います。
本当に危険を避けたいと思うのであれば、むやみに不安にならず、むしろ冷静に論理的に考えるべきです。

以前、こういう人がいました。
福島原発の事故があって、日本は放射能汚染で大変だから、ご主人のタイ赴任を幸いに日本から逃げて、安全なタイにやって来たのだとか。

でもね、考えてもみてください。
日本とタイの、犯罪による死亡率や交通事故による死亡率、どっちが高いですか?
圧倒的にタイの方が高いんですよ。殺人事件の発生率なんて、10倍以上ですから。
どうしてタイが安全で、日本が危険と言い切れるのでしょう?
そう言い切れる根拠を知りたいです。

死の恐怖と向き合う

私は、そうやって自分が思い込んだことだけを怖がる人を、バカにするつもりはありません。
人間というのは、そういうものだと思うからです。私自身もそうですから。
ただ、そこから脱却できた方が、より幸せになりやすいと思うのです。

そして、この恐れ(不安)ということを考えていくと、最終的には「死の恐怖」に行き着きます。
「死んだらどうしよう?」
そういう不安ですね。誰にもあるし、普遍的な不安です。

でも考えてみれば、これはおかしな不安です。
だって、死んだらもうどうしようもないではありませんか。
いったい、それで何を不安に思うのでしょう?
それに、人間というのは死亡率100%の存在です。誰もがいつか、必ず死にます
しかも、明日死ぬかもしれないし、何十年後かもしれない。誰にもわかりません。

そういう「おかしな不安」でありながら、人間にとって重要な「不安」なのです。
そしてこのことは、臼井氏が求められた「悟り」とも関係してくると思うのです。

ここでは、これ以上は深掘りしませんが、私は、「怒り」よりも、この「心配(不安)」の方が根深い問題だと感じています。
なので、これはまたあとの方で、もう少し語りたいと思います。

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