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私たちはなぜ生きるのか?

レイキの目的である悟りを得ることのために、スピリチュアルな話をしています。
前回は「魂は永遠に生きる」で、私たちの本質が魂であり、魂はエネルギーそのものであり、永遠に存在するものだという話をしました。

では、そんな永遠の存在である魂は、なぜこの世に生まれてくる必要があるのでしょうか?
何のために私たちは、この世での人生を送らなければならないのでしょう?

人生は汚れた魂を磨くためにある?

1つの考え方として、汚れている魂をきれいにするためという考え方があります。
これは、前世のカルマを現世で解消するという考え方とも親和性があります。

たとえば、「あの世に聞いた、この世の仕組み」雲谷斎(うんこくさい)さんは、こんなことを言っています。(ブログ記事はこちら

まず、「あの世」にはお前の「魂の故郷(大きな自分)」がある。
これを「黒い粘土」に例えよう。
この「黒い粘土」の目標は、自分の魂を漂白(向上)し「白い粘土」になること。
ただし、「あの世」で「魂の漂白」の作業を行うのはとても大変なことなんだ。
魂は「あの世」にいるより「この世」にいた方が漂白の効率がいいんだよ。

本当は一気に漂白したいところなのだが、「あの世」にはこの「漂白したがっている黒い粘土」がたくさんいてね、順番待ちが起きているんだ。私だけが「じゃあ、お先に!」って訳にはいかなくてね。
「この世」は物質界であるがゆえに、生まれる事が出来る魂に限りが出てしまうんだよ。
そこで、「あの世」にいる「黒い粘土達」は、「自分のひとつまみ(小さな自分)」だけを「この世」に送るのだ。

このように、この世で苦しまないと魂が浄化されないから、この世に修行のためにやってくる、という考え方です。
しかし、そもそもなぜ魂が汚れているのかということについて、雲谷斎さんは何も言っていません。

※雲谷斎さんはその後、この人生修業説を改められました。

カルマで考えると、元々は純白な幼い魂だったとも言えます。それがこの世で過ごす時に正しい生き方をしなかったために汚れたのだと。
ただそうなると、修行に来たからと言って、必ずしも浄化されるとは言えません。
ですから、進化方向ばかりでなく、退化方向に生まれ変わることもあると言います。

しかしそうなると、そもそも純白な幼い魂は、なぜこの世に生まれてきたのかという疑問が残ります。
この世に生まれてこなければ、汚れる必要もなかったのですから。

人生は学んで成長するためにある?

この世は、幼い魂がいろいろ学んで成長するためにある、という説もあります。人生学校説です。
学ぶ過程ですから、失敗したり、上手くいかないこともあるでしょう。
ですからこの世には、苦しみが存在するのです。

しかしこの考え方は、なぜ魂は幼い未熟な状態でこの世に生まれてくるのか、という疑問が残ります。
私たちが未熟な赤ちゃんとして生まれてくるから、魂もきっとそうだろうと思っているだけですよね?

神が完璧な存在であるなら、その分け御魂である魂が、不完全な状態で生まれてくる必要がどこかにあるのでしょうか?
少なくとも私は、その疑問に対する明確な答えを聞いたことがありません。

人生は体験するためにある

私が最も支持しているのは、「神との対話」で示されている人生は体験するためにあるという説です。
神は、次のように人生学校説を否定して説明しています。

「学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない。(あなたがたの言う)人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。」(p.38)

では、なぜ体験をするためにこの世の人生が必要なのでしょうか?

「魂--あなたがたの魂--は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。
自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かをしなければ、概念にすぎない。親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ。
自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ。」(p.38 - 39)

究極の現実は、「存在のすべて」だけがある絶対的な世界です。
「愛」という概念はあっても、「愛」の素晴らしさは体験はできません。
だから、この相対的な世界に生まれてくる必要があるのだと言います。

「すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。」(p.39 - 40)

神は完全な愛です。
しかし、完全な愛だからこそ、愛の素晴らしさはわからないのです。

たとえて言えば、最高に明るいライトで埋め尽くされた部屋の中で、最高に明るいライトを1つつけても、その素晴らしさがわからないようなものです。
最高に明るいライトの素晴らしさを知るには、暗闇が必要なのです。

この考え方なら、不完全な人間として生まれてくる理由が理解できます。
簡単に言えば、それを体験したかったからです。
不完全を体験しなければ、完全も体験できないからです。

前出の雲黒斎さんも、最近はこの人生体験説を支持されています。
「極楽飯店」という本には、次のような記述があります。

「「全てが思い通りの世界で求める最後の望み…。それって、もしかしたら『思い通りにならない』ってことじゃないっスか…」
 藪内の答えに、閻魔はパチパチと手を打って嬉しそうにはしゃいだ。」(p.177)

これは、死んだ男の物語です。天国に住んでいると退屈するということから、その理由を考えたのです。
「思い通りにならない」という、よほど神らしくない自分を体験しなければ、すべてが「思い通りになる」ことの素晴らしさがわからないのです。

信じる必要はない

なお、私がその考え方を支持するからと言って、みなさんが同じように信じる必要はありません。
そのことも、「神との対話」に書かれています。

「わたしの言うことを信じるな。ただ、そのとおりに生きてごらん。経験してごらん。それから、何でもいいから、ほかの生き方をしてみなさい。そのあとに、経験を見つめて真実を探しなさい。」(p.149)

自分の真実を見つければよいのです。
「悟り」は教えてもらうものではなく、自分が気づくものなのですから。


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