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ブックカフェ

 東京の隅っこにブックカフェなる喫茶店がある。その喫茶店は店の名前に違わず壁いっぱいに本が並んでいた。単行本や文庫本は勿論、画集などの大型本もあった。ジャンルも多岐にわたっており、文学をはじめとして人文学関連のものを中心に揃えていた。客たちは店に入るとまず棚から本を手にとって席に座り、そして本を読みながらメニューを注文して飲食をする。本は当然シミや破れでボロボロになるのだが、客はあまり気にしないようだ。不思議な事に店の本が盗まれた事は一度もない。ここの店の本が読書家向けのものしかなく読む人間が限定されるからだろうか。この店の客層は老若男女様々だが皆本好きの人間ばかりだ。彼らの中には店を図書館代わりに使用し、一日中勉強する学生までいる。

 ブックカフェは三代続いており、今のオーナーは女性である。この人は喫茶店のオーナーになる前は普通のOLだったらしい。先代の父親が急死してしまい本当ならそこで店は閉店になるはずだったのだが、店の閉店を惜しんだ常連客に請われて三代目になったそうだ。店は繁盛とは言わぬものの、常連客とこの店の噂を聞きつけてくる新参の客たちでそこそこ儲かっているようだ。オーナーは地味目の美人というこの手の文化的な雰囲気のある店に相応しい容姿であり彼女を目当てに店に来る客も多い。オーナーは三十路の独身であるが、店を一人で切り盛りしているので男性と交際する機会がなかなかないようだ。

 さて、本日の昼下がり。このブクカフェに常連客の一人が入ってきた。彼は店に入ってくると棚からスタンダールの『恋愛論』の文庫本を引っ張り出してそのまま隅っこの席に座った。席に座った客は周りを見て自分の他に客がいないのを見て軽く息を吐いた。その客のもとにオーナーは注文を取りにやって来る。

「いつもありがとうございます。今日はなににします?」

「あれ?僕のほかに誰もいないの?この時間はいつもこんな感じ?」

「そうなんですよ。この時間は不思議なくらいお客さん来ないんです。でも珍しいですね。お客さんいつも夜に来ません?」

「ただの気まぐれさ。近くを通ったら急にこの店を思い出してね」

「まぁ、ありがとうございます」

「おっと、注文を忘れていたね。じゃあストロベリーパフェもらえるかな?こんな陽気には何故か甘いものが食べたくなって来るんだ」

 そういうと客はおもむろに先程棚から取り出した『恋愛論』を胸の辺りまで持ち上げて読み始めた。オーナーは本を読んでいる客に向かってすぐにお持ちしますと声をかけてカウンターに戻った。

 客は目線から本をずらしてカウンターで自分に背を向けているオーナーを眺めた。白いシャツにジーンズという地味目の格好だがそれがかえって彼女のスタイルの良さを際立たせた。彼が先程オーナーに気まぐれで店に入ったと言ったがそれは嘘である。彼は店がこの時間帯には閑散としている事を知っていた。彼は今日告白をするためにこの時間帯を狙って店に入ったのである。BGMが流れぬ店に彼の心臓の音だけが鳴り響く。彼がこのブックカフェに最初に入ったのは学生時代だった。その頃は先代もまだ生きていて、自分と同じように学生であったオーナーもウェイトレスとして父親の手伝をしていた。客はそれから店に通い詰め、店の本を読みながら彼女を今までずっと見ていたが、それなりの恋愛経験をしてきた今ようやく自分が彼女を想っている事に気付いたのである。人間大事な事に気づくのはいつも遅い。しかし今が既に手遅れだという事はないだろう。客は目の前に広げてある恋愛論を読みながら彼女を待った。

「はい、おまたせしました。いちご山盛りのストロベリーパフェですよ」

 オーナーはそう言って客にニッコリと微笑みかけた。客もパフェを一口食べて美味いと満足げに微笑む。オーナーはそれを見てカウンターに戻ろうとしたが、そのオーナーを客が引き止めた。

「あの、いいかな。あなたとちょっと話がしたいんだ。この店の本についてなんだけどね」

 三日三晩寝ずに考えた口説き文句であった。直接告白するなんて野暮の極みだ。やはりこんな文化的な店で口説くにはそれなりの口説き文句を言わなくてはならない。

「僕はずっとこの店に通っていただろ?だからこの店の本は全て読み尽くしてしまったんだ。マラルメにこんな詩があるじゃないか。『我、全ての書物を読みぬ』って。今の僕もそんな心境なのさ。だけどどうしても読めないものがある。それはあなたという存在……」

 客がそう前置きを語りいよいよオーナーを口説こうとした瞬間、オーナーはいきなり激昂してこう叫んだ。

「なに?お客さん今なんて言いました?この店の本は全部読んだって?それって本当なんですか?私昨日新刊本を置いたんですけど、それももう読んだっていうんですか?私にはそう思えませんね。あなたが店でいつも読んでいるのは恋愛絡みの本だけじゃないですか。それとも店にある他の本は家で読んだっていうんですか?ここには一日では到底読みきれない辞典のようなものだってあるんですよ。それも全部読んだっていうんですか?他のお客さんはこんなの一生かかっても読みきれないよっておっしゃってますよ」

「い、いや、それでも僕は読んだんだ。僕は速読術の天才だから」

「速読術?あなたうちの店の本をそんな方法で読んでたんですか?全体から使えそうなとこだけかいつまんで棒線引くという私のおじいさんとお父さんが最も嫌うやり方!あなたは寄りにもよってそんな方法でおじいさんとお父さんが大事にしていた本を読んでいたんですか?信じられない!うちのお店のお客さんは本当に本好きの方ばかりであなたみたいに速読術なんて使って本をよむような人はひとりもいませんよ!」

「違うんだ!速読術って言ったのはただの言葉のあやだ!ちゃんとお店の本は全部一字一句にいたるまですべて読んでるんだよ!本当さ。このストロベリーパフェに誓うよ!」

 オーナーはまだ怒りが収まらないようで肩を震わせて客を見ていた。もう口説くとかそんな事を言っている場合ではなかった。客はオーナーに再度弁明しようとしたが、その前にオーナーが話しかけて来たので口をつぐんだ。オーナーは客にこう言った。

「一字一句読んでる。あなたはそうおっしゃるんですね。だったらうちの店の本に関してレポートがかけるはずです。今から三日間で一冊に付き最低1万字のレポート書いてください。私が査読しますんで手書きで、wikiとかのコピべなしでお願いします!」

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