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帰ってきたゴンチャロフ

 イワン・ゴンチャロフは今頭の上から降ってくるチョコレートから必死に逃げていた。しかし逃げても逃げてもチョコレートは自分の上から降り注いでくる。そうして彼は自分めがけて降ってくるチョコレートから逃げ続けてきたが、とうとう息が上がって動けなくなってしまった。しかしチョコレートの手は止まず、蹲る彼に襲いかかった。もうダメだ、とゴンチャロフは絶叫し、せめて夢であってくれと願い必死にもがいた。

 すると突然周りからチョコレートが消え、代わりにまるでシラノ・ド・ベルジュラックの『月世界旅行記』に書かれているような世界が現れた。この見知らぬ夜の街にはクレムリンよりも遥かに高い塔のようなものが立ち並んでいた。ゴンチャロフはこのバベルの塔にも比する巨大な建造物を見て恐ろしくなり、まだ夢は覚めぬのかと絶叫して地べたに転がり回った。しかし彼は誰かが自分に呼びかけているのを聞くと急に黙り込み声のした方を向いた。

 可愛らしい二人の女性屈んでで彼を見ていた。ゴンチャロフは二人の女性を見た瞬間自分がいま日本にいる事を完全に理解した。

 イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ。それが彼の本名である。彼は『平凡物語』『オブローモフの生涯』などの傑作を書いたロシア文学を代表する作家である。また彼は外交官でもあり1853年には長崎に来日している。ゴンチャロフは1891年にペテルブルグで死んだはずだがなぜか現代の日本に蘇ってしまった。

 彼は女性たちがキモノではなく極端に露出度の多い服を着ていたので思いっきり動揺して下を向いた。なんという破廉恥な格好か!おしとやかなお菊さんとは似ても似つかない!

「ねえ、おじさん大丈夫~?」

 ゴンチャロフは恥ずかしさに打ち勝って女を見た。二月にも関わらずほぼ裸に近い恰好をしている女を見て彼はこれが真の芸者なのだろうかと考えた。女たちは袋をぶら下げていた。見るとそこにはアルファベットでGoncharovと書いたものが透けて見えるではないか。彼はこれを見て喜んだ。まさかこんな遠く離れた異国で自分の小説が読まれているとは!ゴンチャロフは立ち上がり懐から万年筆を取り出して女たちに向かって言った。

「君たちが袋に持っている本の作者は僕なのだ。今から僕がその本にサインをしてあげるから早く袋の中から本を出しなさい」

 二人の女はいきなり立ち上がったこの本の作者だとか訳のわからない事を言っている外人を冷たい目で見ると袋の中から箱を取り出して言い放った。

「おじさん、なに酔っぱらってるの?これ、どう見ても本じゃないでしょ~ぉ?これゴンチャロフのチョコレートよ!わかった!バレンタインに会社のバカ男子に義理チョコ送るために買ったものよ!」

 ゴンチャロフは夢で見たチョコレートの悪夢を思い出して突然発狂してしまい、そしてチョコレートのように溶けて消えてしまった。


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