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抱一と北斎

 年号さえも忘れるほどの遠い昔。江戸時代も半ばを過ぎた頃の江戸吉原である。夜を迎え活気づくこの遊郭街の入り口で田舎侍の集団と吉原の門番たちが揉めていた。侍たちがカゴを通せと文句をつけているので、どうやらカゴにいるのは大名か、その子弟か。いかにも立派に見えるようになけなしの金をはたいて飾り立てたカゴはやたら目立つ。田舎侍は脅しのつもりか腰の刀の鞘を握り抜くそぶりを見せながら門番に詰め寄る。

「我が殿に向かってカゴから降りろだと?町人風情が殿に指図するとは何事か!この無礼者め!今すぐ打首にしてくれるぞ!」

 しかし門番は田舎侍の下手な脅しに臆するどころかますます胸を張り侍相手に堂々と言い返した。

「おいおい、礼儀知らずなのはお侍さんじゃねえですか?どこのお国の人か知らねえが、あまりにも酷すぎまさぁ〜。けえれけえれ!ここぁ、お前さん方みてえな田舎侍が来るところじゃねえや!」

 門番がこう言った瞬間、カゴ中からこの無礼者を切れ!切り捨て御免じゃ!との声が聞こえた。声の調子からして若い男である。鞘に手をかけたものの、侍たちは流石に切ろうとは思ってなかったらしくカゴの中の男の命令に流石に戸惑った。しかしカゴの中の男は切れ切れと宣いカゴから手を出して侍たちを煽る。門番は事態の収集がつかず困り果てていたが、その彼のそばにこざっぱりとした格好の若い侍が近寄ってきた。門番はその若い侍を見てぺこりと頭を下げた。

「殿様、助けてくだせえー!あっしこのお侍さんたちに殺されかけてるんでさぁ!」

「おう、はっつぁんどうしたい?また揉め事かい?お前さんはここの揉め事おさめるのが仕事だろい。なのにお前さんが揉め事起こしてどうするよ」

「いや殿様あっしをいぢめねえでおくんなせえ。あっしだってお侍さんには敵いませんぜ、ちょっと文句言っただけで切られちゃあ!」

「フッ、はっつぁん。俺がきたら急に元気になって。さっきの瓢箪みてえな顔が嘘みてえだぜ」

 殿様と呼ばれた若い侍は門番を揶揄うとサッと田舎侍たちの方に向くと彼らをしばしみると高らかに笑って言った。

「お前さんがた吉原は初めてだろ?そこのカゴの旦那。アンタここの礼儀を教わらなかったのかい?ここは大名でもカゴ乗りは禁止なんだぜ」

 田舎侍たちは自分たちの主君をバカにするこの若侍に腹が立った。この若造めと腰の刀を見せつけて凄みだす。カゴの中の男に至ってはもう完全我を忘れて切り捨てよ!と喚く始末だけど。しかし若侍はそれをみても微動だにせず腰に手を当てて名乗りを上げた。

「俺は酒井栄八、酒井雅楽頭家の四男坊だ。喧嘩ならうちの屋敷でいつでも受け付けるから明日の朝にでも来な」

 そして彼はカゴの男に向かって聞いた。

「ところでカゴの旦那、アンタの名前は?」

 若侍の名乗りを聞いて田舎侍は急に顔が青くなった。まさか譜代の名門の酒井の若君がこんなところにいるとは。彼らは動揺しひたすらカゴの中の主君の反応伺った。そのカゴの中の男は黙りこくっていたが、やがて震える声で引けと命じた。彼もやはり酒井の家のものだと聞いて恐れたらしい。酒井の者と揉めたら自分の家はお取り潰しになるかもしれない。カゴの中の男の号令を聞いた田舎侍はすぐに若侍と門番の男から離れ、カゴと共に去っていった。

「殿様ありがてえ。これで命が救われたぜ。しかしありゃ誰です?最近はあんな物知らずの田舎者見たことありませんぜ」

「ふっ、俺に聞くない。わかっていてもお前さんには教えんよ。だがまぁ安心しろ。今後奴はあんな悪さはせんさ。俺が兄貴や向こうの家老にでもそれとなく言っておくから」

「ははぁ、殿様は本当に偉え方だ。だけど殿様みてえな偉え方がこんなこと来て大丈夫なんですかねぇ。だってここに来ている殿様お偉方は大名も旗本もみんな笠かぶって身分がバレねえようにしてくるのに」

「俺は大名じゃねえんだから、身分なんて知るかよ。俺はただ遊びに来ているだけだぜ」

「ホントに殿様は変わった人だぜ。大名のご子息のくせに何から何まで粋なんだから」

「ささっ、殿様。そういえばお仲間も先程入って今頃は殿様をぬらりひょんみてえに首を長くしてお待ちしてますぜ」

「おうそうかい。それじゃ俺もいかんとな」

 若侍はそういうと襟をピリッと直して遊郭街を歩いて行った。店前の遊女たちはこの美丈夫に色目を使い、また彼の顔見知りらしき侍は被っていた笠を頭に押し付けてバレぬように逃げてゆくのだった。

 この若侍こそ後の江戸琳派の代表的な絵師酒井抱一である。彼は酒井雅楽家の江戸屋敷で四男として生まれ、諱は忠因と名付けられた。通名は栄八といい、身近な人間彼を栄八と呼んでいた。栄八は元服してから早くも吉原の悪習に染まり、それからずっと事あるごとに吉原に通い詰めていた。

 栄八が行きつけの遊郭に上がると来るとすぐに主人と女将が出迎えにきた。栄八は主人に向かって指を差して皆が待っているかと聞いた。主人は笑ってゆっくりと頷き、自ら彼を二階の座敷へと案内した。パッと開けた戸の向こうに待っているのは華やかな大夫ではなく、おめでたい顔のお歴々である。浮世絵師、俳諧師、狂歌師、戯作者など江戸の文化人の勢揃いであった。その連中が自分たちより若い侍に向かって一斉に平伏する。そしてお上は上座にと言う。栄八は慌てて皆に顔を上げるように言う。彼は彼らを含めた町人や下っ端の旗本や御家人連中のこういった行動を見ると日頃の江戸屋敷の堅苦しい生活を思い出して嫌になる。しかし彼らにそれを止めようにも自分はあくまで大名の子息であるからやめよなどということは出来ない。

 この連中とは昔からの知り合いだ。栄八は先にも言ったように元服してから放蕩三昧の日々を送っていたが、その日々の中で下々の文化に惹かれ俳句や狂歌、そして浮世絵に親しんでいた。彼は親しむだけでなく自ら習得して創作していた。中でも彼が一番打ち込んでいたのは浮世絵である。彼は元々大名の子弟に必要な素養として狩野派の絵を学んでいたが、やがてその絵に飽き足らないものを感じていた。このようなお上公認の退屈な絵ではなくもっと開かれた絵が描きたい。こう思っていた栄八にとって浮世絵は彼の芸術観を開かせてくれるものであった。

 栄八が上座に座ると早速一同は各々の近況や関心事について話し始めた。お茶汲みなども呼び話も盛り上がってきたのだが、酒が回ってきたのか。浮世絵師が昨今のお上の取り締まりが厳しくなった事を嘆いた。

「全く散々ですよ。毎回毎回絵を描くたんびにいけねえいけねえときた。この間描いた美人画なんざこれ以上こんな絵を描いたら手鎖の刑にするなんて言われましてね」

 他の連中は栄八に気遣って浮世絵師に話を止めるように目配せをした。だが酔っている絵師の語りは止まらない。たまらず戯作者が絵師を叱る。

「おいお前さん、殿の御前でそんな愚痴垂れちゃいけないよ」

 だが栄八は戯作者に対してかまわんと言って浮世絵師にもっと話を聞かせてくれと言う。この絵師は美人画で人気を馳せたあの喜多川歌麿であった。彼はこの栄八の会の常連であった。彼がこの会の連中を描いた絵が今も残っている。栄八はその絵で顔を見せていないがそれはこの貴種に対する気遣いであろう。

 ひとしきり歌麿の話を聞いた栄八は嘆息してこう呟いた。

「はぁ、下々にまで道徳を押し付けるなんざたまんねえな」

「殿様なんとかならねえのか?」

 そう訴える浮世絵師を見て栄八は悲しくなった。

「そり俺には無理だ。俺は大名ではないからな。ただの跡取り候補よ。いずれ兄貴に子供が出来たら俺はお役御免だ。どことなりとも好きに行けってやつさ」

 栄八の嘆きを聞いて歌麿は彼の身の上を思って嘆息した。

「殿様にも色々とご苦労があるんですな。全く殿様みてえなわかる方が老中になればいいのに」

「いや、老中なんてまっぴらゴメンだよ。兄貴見てりゃわかる。兄貴は下々の世情に詳しく絵にも理解のある人だが、そんな人が毎日押しつぶされそうになって帰ってくるのを見ると辛いものがある。兄貴は毎日お城と屋敷の往復で一日を終えるのさ。全くたまんねえよ」

 こう言って栄八はため息をつきそして我が身を嘆いた。

「全くこの世は俺にとって苦しみでしかない。尾形光琳も俵屋宗達も侍でなかったからこそ良い絵が描けたのだ。だが俺は侍、しかも大名の子弟だ。もし二人のように絵を描きたければ遁世するしかない」

 栄八の話に一同は沈黙してしまった。殿様の嘆きに何と言っていいかわからなかったのである。だがその時下から誰かの喚く声が響いたので一同は何事かと表の戸を開けて下を覗いた。どうやら店の入り口に一人の痩せ切った貧相な若い男がいてコイツが喚いているようだ。再び男が喚いた。

「なんだってぇ!おいらがせっかく美人画描いたってのに受け取りたくねえだぁ!おい女郎屋のご主人よぉ!アンタ女だけじゃなくて男まで騙すつもりかい!金くれるって言うからオイラ頑張って描いたんじゃねえか!オラ絵はやるから金はよこしな!それが男の約束ってもんだぜ!」

「黙れこのヘボ絵描きが!こんな下手くそな化け物女の絵なんか頼んだ覚えはねえや!さっさと絵ごと持って帰れ!」

「ああ!言われなくったって帰ってやらあ!オイラ言いふらしてやるぞ!この女郎屋は絵師との約束をすぐに裏切るってな!」

 若い男はそう吐き捨てるとなんと絵を丸めて主人に投げつけた。そして唾を吐いて小走りで去ってしまった。

 栄八は揉め事を見て主人と喧嘩をしている絵師らしき男に興味を持った。彼は歌麿に知っているかと聞いたが、歌麿は知りませんと鼻で笑いながら言った。彼は「浮世絵師にはああいう奴は沢山いるんですよ。自分を高く見積もりすぎておかしくなる奴が」と貧乏ったらしい着物を着た男の背中を見ながら付け足した。

 それからしばらくして栄八たちの会はお開きになった。二階から降りてくる栄八たちを主人は恭しく迎えた。主人はいや先程はお騒がせしてご無礼つかまつったと謝ってきた。栄八は主人に向かって先程の男は何者かと問うた。主人は呆れた顔を見せながら答えた。

「あれは勝川春草っていう三文絵描きですよ。絵心なんてろくすっぽねえのに俺はそこらの浮世絵師とはまるで違う大画家だってぬかしやがるんですよ。私も奴を面白いって思って試しに絵を依頼してみたんだが、これがまぁ酷くって」

 栄八は先程その、勝川春草が絵を丸めて主人に投げつけたのを思い出し、主人にあの丸めた紙は持っているかと聞いた。すると主人は持ってますよ。ちり紙の価値もない代物ですがと懐から丸めた紙を取り出してその場で広げて見せた。するとそれを見た一同はなんて下手くそな絵だと大爆笑した。歌麿は特に笑い。こんな醜女を美人画なら俺の描いているのは化け物絵かと思いっきりこの絵を腐した。しかし栄八は一人笑わず無心になってこの絵を見ていた。確かに下手の極みだ。だけどこの絵には自由さがある。光琳や宗達には到底及ばない代物だが、決してゴミではなかろうと思った。


 この若い勝川春草と名乗る絵師は後の葛飾北斎である。当時は浮世絵師とてデビューしたが、一向に目が出ず苦難の日々を送っていた。元来我の強いたちの彼は師匠とも依頼人とも度々揉める事があった。北斎にとって当時は模索の時代であり、彼の才能はまだ花開いていなかった。

 坂井抱一と葛飾北斎は生まれが一切違いでほぼ同い年といっていいが二人が会ったという話は聞かない。この話でも結局二人を会わせていないが、抱一に北斎の絵を観させてはいる。実際に抱一と北斎は互いの絵を観た事があるのだろうか。もしあったとしたら二人は互いの絵にどんな感想をもったのだろうか。




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