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もうじき閉店する古本屋に入ったのだが……

 仕事帰りに駅前の街を歩いていたらいつも見る古本屋の入り口に閉店セールの貼り紙が貼ってあった。気の向いた時にしか入らず、入っても軽く本の背中を眺めるだけで一度も買ったことのない本屋だったけど、こうして閉店するって知るとやっぱり悲しくなる。私は元々本好きだけど古本はいつもブックオフやamazon等のネットショップで買ってるから古本屋はさほど入ってはいない。入ったとしても店の妙に陰気な雰囲気に気後れして軽く本の背中を眺めてすぐに出て行ってしまう。だけど今日はなんか店に入りたくなった。多分あと何日かでなくなる店の姿をこの目に焼き付けたくなったのだろう。

 入り口の前には雑誌や文庫本の入ったダンボールが何箱か積まれていた。ダンボールには『閉店セール!二冊百円と書かれている。私は興味を持って中の雑誌や文庫を覗いて見たけど残念ながらどれも買う気になれないものだった。それらはブックオフに大量にありそうなものでしかもブックオフに比べたら遥かに痛んでいる。多分一日中野晒しにしているからだろう。ちょっとぐらい紫外線対策をすればよかったのに。

 私は入り口から店内を見た。流石に閉店セールしているだけあって本棚の半分ぐらいは空になっていた。手前の本棚には何もなく、本は奥に集まっているようだ。その本棚の間にレジがあり、そのレジの横には新聞を持った老年の店主が陰気な顔で座っていた。私はこの陰気な顔を見て久しぶりに気後れを感じた。全く古本屋の店主というのはどうしてみんなこんな陰気な顔をしているのだろう。せめてコンビニの店員を見習って挨拶ぐらいしておけば店を閉めることは避けられたのに。私が戸を引いて店に入るとレジの店主は新聞紙から顔をあげてこちらを見た。だけど店主はすぐさま下を向いて再び新聞を読み始める。全くいい大人が挨拶もできないのか。だからアンタの店は潰れるんだよ。私はこう向かっ腹を抑えて本のある奥へと進んだ。するとまた店主がこちらを見たが、私はそれを無視して本を見る。あのね、買いたい本があったら買うけど別にアンタなんかに同情して買うわけじゃないんだからね。

 店内には古本特有のカビ臭い匂いが漂っていた。私はこの匂いがわりと好きだ。この匂いにはなんか知の遺産的なものを感じられるからだ。匂いのせいで店内が博物館にいるような感じがしてきた。そして目の前の本たちも博物館に展示されている歴史的な遺物めいたものに見えてきた。これで店主が博物館の館員みたいに上品な人間だったらいいのに。店内にはもう文芸や理学系のような書物しかないようだ。前に来た時に見た一般本や画集の類はすっかりなくなっていた。勿論奥のレジの裏のエロ本コーナーも完全に空になっていた。多分オヤジたちが買い占めたのか、それとも店主が個人的にヤフオクやらメルカリに出して売ったのかそのどちらかだろう。エロ本コーナーが空になっていたのを見て私は本当にスッキリした気分になった。不愉快なものが全て取り払われて今は純粋な本だけがある。確かに前に寄った時にあったファッションのカタログがなくなっていたのは残念だけどそれでも充分だ。

 棚に並んでいる本を見て心臓が昂った。なんと尾崎翠のあの名作『第七館界彷徨』の初版本らしきものがあったからだ。それと野溝七生子の『山梔』もそれらしきものもあった。このすっかり焼けて茶色になってしまっている本を見て私は驚きのあまり頭がクラクラした。なんでこんな本がここにあるのか。尾崎翠と野溝七生子は私が最もリスペクトする作家たちだ。二人とも男尊女卑が今より遥かに酷かった日本で己を貫き通した偉大な人たちだ。少女は大人になり貞淑な妻になる事を決められたあの酷い世界の中でそれを拒否するかのように少女であり続けたのだ。そんな本がこの陰気な店主のいる古本屋にあるなんて。私は買わねばならぬと決意し頭の中で預金通帳やらクレジットに使える金額を確認しすぐさま本を二冊取り出して背表紙を開いた。

 見返しに書かれた値段に嬉しさと怒りを同時に感じた。本は二冊とも千円ぽっちだった。確かに千円なのは嬉しいし財布にも優しい。だけど尾崎翠と野溝七生子の初版本が千円ってなんだよ。お前古本屋なんてやってるくせに尾崎翠と野溝七生子の価値さえわかんないの?私はこのインキンタムシを心から軽蔑した。私の尾崎翠と野溝七生子をよく二足三文で売れたものだ。そんなんだからお前の店は潰れるのよ。だけど本はちゃんと買うよ。だってこの二人の価値をわかっているのは私しかいないんだから。私は本を小脇に抱え一種の正義感から来る高揚感的なものを感じながらレジへと向かった。

 レジで本を突き出した時店主はジロリと私を見てから本を受け取った。ホントにインキンタムシだ。絶対薬かなんか塗ってる。あなた陰気すぎるからインキンタムシになるのよ。古本屋畳んだらちゃんとコミュニケーション取れるようになりなさいよ。店主は陰気な顔で尾崎翠の本の見返しを覗くとそこで目を止めて本をじっくりと覗き込んだ。それから野溝七生子の本の見返しも覗いた。この店主の行動を見て私はまずいと思った。もしかしたら店主は間違って値札を貼り付けていた事に今気づいたのかもしれない。そうだとしたら買えないかもしれない。いやこんなこと考えている暇はない。千円札二枚突き出して買って見せる。このインキンタムシが値段書き間違えたなんて言ってきても知るもんか。そんなこと言ってきたらあなた千円って書いているよねって文句言ってやる。私はインキンタムシをガン見した。

 店主はしばらく本を見てそのインキンタムシな目でまた私を見た。私は何を言い出すのかと緊張して思わず唾を飲み込んだ。インキンタムシはしばらく私を見てから私に二冊の本を見せながら「あなたこれ中身ちゃんと確認したんだよね」とか聞いてきた。はぁ?確認ですって?あなた私をなんだと思ってるの?私は今あなたが手にしている二人の天才作家の本を誰よりも深く読み込んでいるのよ。舐めんじゅないわよ。中身なんか見なくても彼女たちの小説がどれほど偉大なものであるかはリンゴがリンゴが果物であることぐらいよくわかっているわ。私は二千円を突き出してこのインキン・キン・タムシに向かって「そんなもの確認する必要なんてないわ!さっさとその本よこしなさいよ!」と言ってやった。すると店主はインキンタムシを丸出しにした目で私を見て二千円札を受け取ると本を投げるように突き返してきた。なんて無礼な!あなた本になんて扱いするのよ!私よりも尾崎翠と野溝七生子に対して失礼じゃない!私は手持ちのバッグに二冊の本を入れるとインキンタムシをキッと睨みつけてその場を去ろうとした。しかし店主がその私を呼び止めてインキンタムシな目で私に向かってこう言った。

「あのね、一応言っとくけど今あなたが買った本レプリカだからね。中身確認すればわかるけど本真っ白だからよろしくね」

 店主の言葉を聞いて私は慌ててバッグから本を取り出して中身を確認した。確かに真っ白だ。だけど何故……。

「あなたやっぱり本物だと思ってだんだね。この本が置いてあった棚にちゃんと張り紙貼ってあるじゅないか。『レプリカコーナー あの稀覯本の表紙を完璧に再現!』って」

 な、なんでこんな!こんなレプリカ買うわけないじゃない!ふざけんな!私は店主にレプリカを突き出して返金を迫った。だけどインキンタムシは頭を横に振ってうちは返品は受け付けていないとか言い出した。私は激昂してこんなの詐欺だ!警察に訴えてやると怒鳴りつけた。しかし店主はそのインキンタムシな表情を変えず、私に向かって一冊の本と、何故か古ぼけたレコードを差し出してこう言った。

「さっきも言った通りうちは返品は受け付けてませんので、代わりにこれをただであげましょう。尾崎翠の一文字違いの官能小説家尾崎緑の『第七官能彷徨』と渡哲也の『くちなしの花』です。尾崎翠と野溝七生子ほどじゃないですが、こちらもグッときますよ」

 差し出された本とレコードを見て私の怒りは頂点に達した。私は手持ちの本を店主に投げつけて叫んだ。

「ふざけんなこのインキンタムシ野郎!」


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