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《長編小説》全身女優モエコ 第三話:目覚め

前話 次話 マガジン『全身女優モエコ』目覚め編

「この糞ガキが!いつまでも外ほっつき歩きやがって!もう色気づいたか!」

 と父親はモエコが家に帰ってくるたびに罵声を浴びせた。彼女は毎日酒を飲んだくれている父親を無視して寝室に向かい、そして洗面具を持ち出すと、風呂で体を洗い流してすぐに布団に入った。それが彼女の日常だった。

 モエコは学校からの帰り道に、いつも街の電器屋に行ってテレビを観ていた。彼女の家にはテレビがなく、テレビを観せてくれる友達もいなかったので、こうしてわざわざ町にいかなければテレビを観ることが出来なかったのである。今日も彼女は授業がおわるとまっすぐ街まで歩いて、電気屋の前に置かれているテレビの前に立った。そこではテレビドラマが放送されていた。テレビドラマは当時夕方の時間にやっていた二時間の通俗的な不倫ドラマの再放送だった。

 主演を務めていたのは当時この手のドラマに引っ張りだこだった女優であり、そして不倫相手を演じていたのは、当時ゴールデンで人気を博していた『情熱先生』の主演の神崎雄介であった。神崎は今では大御所俳優になっているが、当時は若手俳優の一人であり『情熱先生』の教師役で人気急上昇中だった。家にテレビのないモエコは当然『情熱先生』を観ることは出来なかったが、学校が大嫌いだったモエコにとっては、見ようが見まいが全くどうでもいいドラマであった。

 しかし、彼女の目の前で不倫相手を演じる神崎は素晴らしかった。このドラマは古いドラマで、神埼がブレイク前に出演したものである。彼のその必至に何かにむしゃぶりつくような演技は、役柄も相まって、たちまちのうちにモエコをトリコにしてしまった。この神崎の役は母娘と関係を持つプレイボーイの役だが、今ブラウン管の中で、その彼が娘を必死に口説いていた。しかし、言葉巧みに娘を口説くプレイボーイの役を熱演する神崎に、娘役の女優はどうしようもない棒読みの演技でしか応えられない。モエコはこれではせっかくの神崎の演技が空振りではないかと心の底から呆れ果てた。

 神崎がクローズアップで正面を見つめ、「僕には君しか見えない」と囁いた時、モエコは神崎に恋情みたいなものを覚えた。いや、恋情ではなく、彼女が役の人物そのものになってしまったために起こった錯覚であった。そう、これはあの役にひたすらのめり込み役を演じるためだったら人殺しでもしかねない、あの全身女優火山モエコが演技というものに目覚めた瞬間であった。彼女は何かに突き動かされるように、一歩テレビの前に近づいた。そして身ぶりを交えてテレビの中の女優と同じ台詞を言った。

「ダメ……どうせママにも同じこと言ってるんでしょ!」

「そんなわけないだろ!」

 と、神崎が、嫌がる娘を抱き寄せ、キスを迫ってきた。彼は彼女の頬を両手で挟んで口唇を近づけたその時だった。娘の役に入り込んだモエコは、テレビに近づくと、唇を突き出して、そのままテレビの中の神崎にキスをした。これはおそらく彼女の人生で初めて演じたキスシーンであっただろう。すっかり役に入り込んだ彼女にはもはやこのキスを止めることは出来なかった。熱くテレビにキスしながら、彼女はいつのまにかブラウン管の中の世界に入り込んでいた。

「このガキ、何やっとるか!人の商売道具に唾なんかつけやがって!」

 後ろから叫び声がしたのでモエコは我に返り、ハッとして振り向くと、そこに顔を真っ赤にした電器屋の店員が立っていることに気づいた。その瞬間男はいきなり彼女の両肩を掴んだ。モエコはこんな事が両親にバレたら大変だと思い、無我夢中でこう叫んでいた。

「キャァー!おじさん。いきなり何するの?やめて!やめて!警察呼ぶわよ!」

 モエコの必死の叫びを聞いてあたりの通行人が電器屋の前に集まってきた。電器屋は周りの冷たい視線にこれは誤解だといい、モエコを指してこのガキが!と必死に弁明したが、目の前でしゃがんで泣く小学生を目にしては誰も電器屋の言うことなど信じない。モエコはもう一度電器屋をみるとキャァー!と叫んで泣きながらその場を逃げ出した。無我夢中の大芝居だった。彼女はその大芝居でその場にいた人間を完全に騙してしまった。

 その翌日、彼女はいつものように電器屋に寄ったが、店にはシャッターが降りていて、シャッターの前に『緊急の用事のためお休みします』と張り紙があった。その翌日もモエコは電器屋に出かけだが、電器屋は相変わらず閉まっていた。そしてその翌日も電器屋に行ったら、『長らくお世話になりました。当店は昨日をもちまして閉店しました』と張り紙が貼ってあったのだ。モエコはもうテレビを観れぬ悔しさのあまり、テレビを観せろと店のシャッターを何度も叩き、蹴りまで入れたが何の反応もなく、モエコはすっかり絶望し、思わずその場で泣き伏したのであった。

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