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命を救った奇跡のうどん

 山に囲まれたとある寂れた町にあるうどん屋の主人と女将は閉店の準備をしていた。冬間近の店内には少し開けた戸から冷たい風が入って来る。主人は女将に向かって暖簾を外して戸に鍵をかけるように言った。これで今日も店はしまいだ。主人は一体いつまで店を続けられるだろうかとつぶやいた。それを聞いた女将が言い返した。「またそんなこと言って!でも明日になればケロッと忘れちまうんだから!」主人はこの女将の言葉に苦笑して舌打ちしながらちげえねえ!」と女将に答えた。それから女将は鍵を手にいそいそと暖簾を外そうとしたのだが、その時戸の前に誰かが立っているのを見て驚いて手を止めた。戸の前にはやたらガタイの大きな男が俯いた姿勢で無言で立っているではないか。女将は男に言った。

「お客さんかい?生憎だけどねもう店じまいなんだよ。また明日来ておくれ」

 しかし男は女将の言葉を聞いても去ろうとせずそれどころか店に入ってこようとするではないか。女将は驚いて慌てて男を止めた。

「私の言っている事聞こえなかったのかい?店じまいだって言ってるだろ?」

 しかし男は女将の制止を振り切って店に入ってしまった。そして乱暴な調子でカウンターの前まで来ると主人に向かって大声でうどんを注文した。

「まだうどん残ってるだろ?さっさとメニュー表出せよ!俺は客なんだぞ!」

 女将はすっかり怒って男に食って掛かった。

「ちょいとアンタ!いい加減にしときよ!うちはボランティアでうどん屋やってるんじゃないんだよ!」

「うるせえんだよババア!それが客に対する態度かよ!こんなうどん屋ぶっ壊してもいいんだぞ!」

「警察呼んでやるわよ!アンタ逃げるんじゃないわよ!」

 女将はこう言い放つと店の電話機に手をかけた。だがその時だった。ずっと奥で黙っていた主人がこう言って女将をとめたのだ。

「やめねえか。この人はお客さんだぜ。お客さん、すいませんね。うちのかみさんが失礼な事をしでかしまして。さあカウンターに座っておくんなせえ」

 男は主人に深みのある声で謝られて戸惑い黙ってしまった。そして主人に言われたとおりおとなしくカウンター席に座った。

 主人は向かいのカウンターで反り返って座っている客を見た。初めてあった男だがしかし何故か見慣れた顔のような気もする。身なりから地元の人間ではないことはわかった。派手な格好からして都会の人間だろう。だが彼のような男がなぜこんな僻地にあるうどん屋に来たのか。自分たちの店は近所の連中しか来ない店である。観光客がわざわざ訪ねるような店ではない。なのにこの遠方の客は閉店時間にやってきてそしてしかしこの苛立ちようはなんなのか。彼は一体何に苛立っているのだろうか。カウンターの向かいの客はずっと俯いたまま何か呟いている。主人は女将に向かって水を出すように言った。女将はいかにも不機嫌そうに客に水を差し出し、そして男に向かって言った。

「あいにく店じまいなんで今作れるものはかけうどんしかないんだよ。それでもよかったら食べてくんだね。嫌だったら別のところに行くんだね。とはいってもウチみたいな田舎じゃ今頃空いてる店なんかないけどね」

 客は愕然として主人を見た。主人は客の放心した表情に驚いて思わず男の顔を見た。客の表情は驚きから苦痛に満ちたものになりやがて怒りに満ちた顔に変わった。

「ふざけんなよ!最後の飯がかけうどんだって!ったく俺はどうしてこうついてねえんだ!」

 そう体を震わせて叫ぶ客を見て主人はなんだか客が気の毒になった。かけうどんしか出せないことを申し訳なく思えてきた。真っ赤な顔でうつむいている客に主人は再び謝った。

「申し訳ないね。もう材料を切らしちまったんだ。天ぷらも他のもんも全部売り切れちまったんだ。ネギすら少ししかねえんだ。それでも喰うかい?食べられねえっつんならこっから1キロ歩いたところにコンビニあるからそこへ行きな」

 だが客は店から出ていかずカウンターに身をうずめて叫んだ。

「いいよ!ここでかけうどん食ってやるよ!実は言うと別に飯なんかどうだっていいんだ!ただなんか腹に入れねえと山に行く勇気が出ねえって思っただけだ!」

 この客のあまりにも絶望的な叫びに主人と女将は思わず互いの顔を見た。ふたりともこの客がまともな精神状態ではないことに気づいた。女将は心配になり主人に向かって電話に目配せしてやはり警察に連絡したほうがいいと合図した。しかし主人は女将に向かって首を横に振るとそれから客に向かって話しかけた。

「じゃあかけうどん作るからちょいと待っておくれよ」


 それから主人はかけうどんを作り出した。まもなくして余り物のうどんとこれまたあまりもののだし汁だけの簡素極まるかけうどんが出来上がった。主人は女将に向かってうどんが出来たことを告げそして盆に乗せて客に運ぶように言った。

 客は盆に載ったかけうどんを見て顔を思いっきり歪めた。そして「これが最期のめしか……」とつぶやくと箸を手に取ってかけうどんを食べようとした。しかしその時突然主人が客に向かってこう言った。

「お客さん、やっぱりそのまんまでかけうどんを差し上げられないよ。せっかく遠くから来てくれたのにさ。かけうどんだけじゃ侘びしすぎるぜ。ちょいとあっしのオリジナルのメニューで食べてみねえか?」

「いきなり何だ?オリジナルのメニューってそんなものあるのか?」

 女将は主人をキツく睨みつけて言った。

「アンタ!お客さんを怒らせる気かい?あんなもの出されたらこの人大暴れしちまうよ!やめてちょうだいよ!」

「俺は別にかまわない。どんなものだろうが食べる。こんな安いだけのかけうどんなんかより、旦那さんのオリジナルメニューに挑戦したほうがマシだ!いいからそのメニューを早く出してくれ!」

 決然とした客は表情でこう言った。その表情を見て主人と女将は顔を見合わせてうなずいた。主人はまっすぐ揚げ物の調理場所に向かい、女将は調味料をかき集め始めた。そして主人と女将は客の前に山盛りの天かすと生姜と醤油を差し出した。客は驚いて主人の顔を見つめた。主人はその客に「今からあっしのオリジナルメニューを作ります」と言うとカウンターのかけうどんに山盛りの天かすをすべてかけたのだ。すると貧相なかけうどんはたちまちのうちに天かすのエベレストになった。それから主人は汁に向かってさじに山盛りの生姜をぶっかけた。汁の中に落ちた生姜はまるで海の上を漂う氷河のように漂う。そしてエベレストと氷河に五回とぐろを巻いて降り注ぐ豊穣の黒い雨は醤油だった。こうして出来た主人のオリジナルメニューである天かす生姜醤油のぶっかけうどんはお世辞にもとても見栄えがいいものとは言えない。女将は気持ち悪さのあまり顔を歪める客に向かって確かにギトギトして食えたものじゃないって思うかもしれないけど、食べれば結構美味いんだよ!と言って必死でなだめた。

「まぁ、一口食べてみてくんさい。カミさんの言う通りたしかにゲテモノみたいに見えるかもしれねえ。だけど食べてみりゃ見てくれなんかどうでも良くなるってみんな言うんだよ。実際コイツだって結婚する前はなまるうどんでオイラがこういう風にかけうどんを食べたらそんな気持ち悪い食べ方やめろ!今度やったら別れてやる!とか抜かしてたくせに試しに食べさせてみたら目をキンキラキンにして美味いってかぶりつくじゃねえか。他の連中もそうだ。みんな食べたら目をキンキラキンにさせてうまいうまいってうどんをかっこむんだ。さぁ、食べてみなよ。食べりゃ嫌なことだって忘れられるかもしんないぜ」

 客はこの主人の自分を見透かすような言葉にハッとなった。顔を上げて主人を見ると真顔で自分を見つめているではないか。客は一旦置いた箸を再び手に取った。そして恐る恐る箸をうどんに近づけて行った。箸でうどんを掴んだ客は天かすや生姜が麺にまとわりついているのを見て腐った麺にカビかキノコが生えているように思えて気持ち悪くなった。それでも我慢して震える手を押さえてようやく口の中に入れた。するとたちまちのうちに口の中が天かすの油で一杯になった。客は不健康なほど充満する油に耐えきれずその場で戻そうかと思ったが、しかしその時客はその油の充満する奥底から旨味が次から次へと溢れ出してくるのを感じた。客は旨味に感激して一気に麺を啜ってしまった。

 なんだろうこの美味さは。ただのかけうどんに天かすと生姜と醤油をぶっかけただけなのにどうしてこんなに美味くなるんだ。客は今の感じた旨味が本物であるかを確かめるために再び麺を口の中に入れた。やっぱりさっき感じた旨味は本物であった。それどころかさっきよりも遥かに旨味が感じられるではないか。客はエベレストの万年雪のような天かすが自分の熱い口の中でホロリと溶けるのに感動し、氷河のように汁の上に漂う生姜がこのただのワカメとかつお節の味気ない真水を海に変えてしまったのを舌で味わった。そしてとどめはそのエベレストと海に降り注いだ醤油の雨であった。醤油の恵みの雨はこの全ての生きとし生けるかけうどんに生命の豊穣さをもたらした。客はすっかり夢中になってうどんを啜っていたがしばらくしてどんぶりの中のうどんが残り少なくなっているのに気づいた。

 客は残り少なくなったうどんを見て突然泣き出した。彼は箸を持ったまま涙も拭わずただ放心したように泣いていた。

「チキショウ!こんなに美味いうどんが二度と食べられないなんてよ!どこまで俺はついてないんだ!」

 主人と女将はカウンターの泣いている客を見て感情が込み上がってくるのを感じた。自分たちのかけうどんにここまで感動してくれた客は初めてだった。この何かの理由で山の麓の町に来た男は自分たちのかけうどんに涙まで流してくれたのだ。こんな客は初めてだった。普段はつゆどころか麺まで手付かずで残すことが珍しくない客たちの中でこの遠方から来た客だけは自分たちのかけうどんを美味いと褒めてくれたのだ。主人は客に向かって話しかけたかった。しかし客の事情に下手に立ち入っちゃいけないという職人気質の戒めが彼を押し止まらせた。結局主人は躊躇いの後客に向かってただ一言こう言った。

「お客さん、早く食べねえとうどんが冷めちまいますぜ」

 客は主人の言葉を聞いてハッとして再びうどんを食べ始めた。一口食べるごとに彼の頭の中にこれまで生きていた日々が浮かんできた。輝かしい過去の栄光とそして現在の惨め極まる状況。麺を噛むごとにそれらの情景が浮かんでは消えてゆく。しかしもう全ては終わりだ。この店を出て山へと向かいそれから……。だが今こうしてうどんを啜っていると無性にこの世が愛おしくなってきた。生きていても待っているのは絶望的な状況なのに。どうしてそんなものに未練を感じるのか。それは全部このうどんのせいだ。こんなかけうどんに天かすと生姜と醤油をぶっかけただけの栄養の悪さが充満しているうどんが旅立とうとする自分の手を引っ張って引き止めているのだ。しかし客は躊躇いを振り切るように麺を全て啜ってしまった。そして汁を啜ったブヨブヨとした天かすも全部口に掻き込んだ。

 うどんを平らげてしまった客はしばらくそのまま俯いた姿勢でいた。どうやら何かを考えているようだった。そして決意したかのように顔を上げて主人に礼を言った。

「こんなに美味いかけうどん食ったのは初めてだ。ありがとう。あんたのおかげでやっと決意が出来たよ」

 その客の決然とした表情に主人はただならぬものを感じて思わず彼に問いただした。

「あんた今からどこに行くんだい?」

 客はしばらく黙った後主人にこう問い返した。

「なぁ、アンタ。ここまだ電車あるかい?」

 主人は客の答えに何故かホッとするのを感じて威勢のいい声で答えた。

「今からだったらまだ終電に間に合う。都会じゃねえからすぐにゃ動かねえ。急ぐ必要はねえよ!」

 客は財布から勘定を払った後別れ際に主人と女将に言った。

「ありがとう。アンタらのおかげで俺は道をはずさねえで済んだんだ。恩にきるよ。この事は絶対に忘れねえよ!」


 それから翌々日の事である。夫婦はいつものように店の開店準備をしていたがつけていたテレビのワイドショーを観て女将がびっくりした声を上げて主人を呼んだ。

「アンタ大変だよ!あの、今やってるテレビに一昨日きたお客さんが出てるんだよ!」

 その妻の言葉に主人は何事かと思いながらテレビの方に向かいそして画面を観たのだがたしかにこの間の客が映っているではないか。その客はテレビカメラの前で涙ながらに矢継ぎ早に繰り出される記者の質問にに答えていた。その右下にはこんなテロップが出ていた。

『行方不明の元プロ野球選手の〇〇さん見つかる!』

 主人はそのプロ野球選手の顔を見てどうりで見慣れた顔だと思ったと独りごちた。プロ野球選手は号泣しながら記者の質問に答えていた。今年知り合いから紹介された男とラーメン店を始めようとしたが、店の開店前に自分の出した金を全て持ち逃げされてしかも莫大な借金まで背負わされた事。そして借金で首が回らなくなって山で自殺しようと彷徨っていた事。そして自殺の前に最期の晩餐と思ってとあるうどん屋でかけうどんを注文したことなどを答えた。そして彼は最後にこう涙ながらに言った。

「あのうどん屋でかけうどんを食べなかったら僕は今頃この世にいなかったのかもしれません。僕はあの天かすが山盛りに入って生姜もピリッと効いて醤油でキリッとしめたあのかけうどんを食べてもう一度やり直そうって思ったんです。あのかけうどんは僕の命の恩人です!」



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